映画版「響けユーフォニアム」

京都アニメーションの映画版「響けユーフォニアム」は、原作でありテレビ版の範囲での、主人公の黄前久美子(おうまえくみこ)と先輩の田中あすか(たなかあすか)との関係の部分にフィーチャーした内容となっているわけだが、原作がさまざまな主題をとりあげていて、論点が分散しているのに対して、今回の映画では、完全にあすか先輩と久美子の姉をオーバーラップさせて、フィーチャーした内容になっていて、テレビアニメ以上に強調した内容だった、ということであろう。
別にここで、京アニの歴史を振り返りたいわけではない。ただ、映画「聲の形」を見に行ったとき、その作品の内容以上に、パンフレットで監督が

  • 映像の美しさやバックの音楽の美しさ

みたいなことばかり書いてあることに私は違和感を覚えた。そもそも、原作はさまざまに問題含みな、むしろ原作者自身が社会に問題提起をすることを、ある程度意図した「挑発的」なものであったわけであるし、前半の小学校時代の陰湿なイジメの場面を、まるでそれが

  • 美しい

なにかであるかのように、バックで意味不明な音楽を流して、映像を「美しく」作っていたその構成を見ていると、この京アニというアニメ制作集団は、ある一線を超えてしまったんじゃないのか、といった印象を受けた。
日本の今の文脈において、イジメを

  • 美しく

描くということは、大きな政治的な意味がある。イジメという、これほどの社会問題をまるで「美しい」ものであることのように描くこと、この問題に対して、なんの政治的なメッセージも発しようとしないことは、非常に問題含みだったんじゃないのかと思っている。このことは、京アニがただの「技術屋集団」になり下がっていることを典型的に意味しているわけで、正直残念であった。
そういった視点で今回の作品を見直すと、やはり同じ問題を感じざるをえない。とにかく、視聴者に分かりやすく、視聴者に制作側の意図が伝わりやすいように、各エピソードを「強調」して描くことに耽溺しているわけだが、原作を読むと、こういったあすか先輩に関するエピソードはとても「あっさり」と書いてあるわけで、変に強調すべき個所なのかについては異論があるわけであろう。それは反対に言えば、原作はまだ「続き」が原作者の中では想定されているわけで、なんらかの「後日譚」のようなところで、本当のあすか先輩の口からの「本性」ではないけど、当時の「感情」の説明がされる、といったことも考えているのかもしれない。いずれにしろ、今回の映画はそういった意味ではどこか、原作と合っていない、中途半端な印象を受けるわけである...。