橋本剛『マルクスの人間主義』

小池百合子は「自分は自民党」だとか言っているらしいけどw、なんでこいつは、自民党から出馬しないんだ? いい加減、だれかこの女を黙らせろよ。しかも、とうとう

まで、言及し始めたぞw

小池百合子代表は公約発表会見で、「社会保障全体のあり方を見直すべき」と述べ、後藤祐一氏はベーシックインカムに関して「基礎年金、生活保護雇用保険などを置き換えていくことを検討している」との考えを示した。
小池代表「AIからBIへ」 希望の党がベーシックインカムに言及 | THE PAGE(ザ・ページ)

これ。完全に「ネトウヨ」向けに発言しているだろ。だって、わざわざ「生活保護」の「廃止」に言及してんだぜ。2ちゃんねるとかで、ネトウヨが発狂して喜んでるじゃねーか。なんなんだ、このゴミクズ政治家は。
恐しいね。もしも小池百合子が総理大臣になったら、日本の福祉は破壊される。日本人は、小池百合子によって「殺される」わけだ。そもそも、BIを採用するからって、なんで

  • 他の福祉を廃止する

とかという話になるんだよ。それって、まさに、われらが東浩紀先生の「最小福祉国家主義者」なわけでw、恐しいね。

ぼくは最小福祉国家主義者で、国家は国民の最低限の安全保障と市民生活を維持するのが仕事で(そして実際それで精一杯なはずで)、クリエイティブな才能を伸ばすとかイノベーションを支援するとかには手を出さず、そっちは規制緩和でいいと考えている。だから官僚に夢を与える話はできないのよね。
@hazuma 2017/09/11 12:49

そして日本の最大の問題は少子高齢化なのだけど、これこそ考えてもどうしようもないことで、いま必要なのは高齢者への年金給付だか社会保障だかを大幅に引き下げることなんだろうけど、これは政治的に絶対的に不可能なので、議論しても意味がない。この点でも夢を与えることができない。
@hazuma 2017/09/11 12:51

年金と社会保証を「大幅」に引き下げることが彼の「夢(=生きがい)」なんだそうだがw、早晩、東浩紀先生は小池百合子とタッグを組んで、国民の

  • 福祉潰し

に全ての「生きがい」を賭けて、全精力を注ぎこんでくるんでしょうね。おっかないよー。こわいよー。
正直に言って、今の若い人たちは、あまりにマルクスを読まなすぎるんじゃないのか、と思わなくない。それは、ようするに、日本中にできた大学において、そのほとんどを占めている「経済学部」と呼ばれる学部が、実際のところは、マルクス経済学ではなく、近代経済学といった、アメリカの一部でさかんに研究されるようになった「経済(数学)理論」のことへと代替されていった過程において、つまりは、アメリカの金本位制の廃止に始まり、経済学とは

  • 金融理論

のことへと論点がすりかえられていった過程において、マルクスを一種の「時代遅れ」のなにかとして解釈するような人々のポジショントーク的な流行がこの動きを後押ししてきた、ということを意味しているのであろう。
それは、こういった近代経済学派たちが、たんなる「数学計算」をしているに過ぎないなにものかでありならが、それを一つの「経済学的成果」であると吹聴するのと呼応するように、マルクス経済学的な関心を

  • なにもやっていない

と罵倒してきた、そういった「党派的」な関係も関係していたのであろう。
しかし、そういうことではないのである。

それは、各個人の精神的自由と自立を指し示しており、『情念論』のなかのデカルトの言葉、<この自由意志がわれわれに与える権利を臆病のゆえに失うとさえなければ、自由意志は(中略)われわれをある意味で神に似たものにするのである>という、人間の尊厳について言及したデカルトの言葉を想起させる。これらの発言によってデカルトもカントも、あらゆる隷属状態からの脱却=自己解放こそは、理性を自然素質として与えられている人間存在に課せられている義務なのである、と主張していると言える。

例えば、ポストモダンっていうのがある。これはモダンの「ポスト」と言っているわけだけど、ようするに、近代の啓蒙主義人間主義の「ポスト」だって言っているんだよね。ようするに

なんだよ! 実際に、ポストモダン系が礼賛しているのって、サイコパスとか、人間性の「否定」なわけでしょ(まあ、「動物」がどうこうとか言い始めている人もいるわけですが)。というか、例えば、柄谷行人の「批評とポストモダン」という論文は、自分はポストモダンじゃない、っていう論文でしょ? そういう意味で、そもそも、自分で「自分はポストモダン」だと言って、ポストモダンを「肯定的」に語っているのって、われらが東浩紀先生くらいなんじゃないの? だって、ポストモダンとは「非人間性」とか、啓蒙主義の「否定」とか、こういう主張なわけで、こんなことを言っているのは、われらが東浩紀先生なんじゃないの? こんな「恐しい」ことを言っているのってw
デカルトから始まる、「啓蒙主義」とは、ようするにそれまでの「神」をすべての源泉として、そこからあらゆることを導いてくるといった関係を離れて、人間を神と独立した場所に自存させながら、その人間に人間独自の「諸関係」がある、といった主張だった。しかし、そうである限り、一つのアポリアと対決しなければならなかった。それが、人間の「非人間性」であった。

じつは、こうしたホッブス的「人間」の行動パターンとの類似物を、私たちは<貨幣--資本>の論理のうちに見出すことができるはずである。

科学にしても数学にしてもそうだが、それ「自体」においては、人間性はない。しかし、そうであるがゆえに、科学や数学で人間を「説明」していこうというアプローチは必然的に「非人間性」の性格を帯びていく。それはホッブスが描き出した「国家」がそうであるし、そもそも「資本主義」がそうだ。
しかし、それでいいのか?
この問題にとりくんだのが、マルクスなわけであろう。国家や資本主義の「非人間性」をコントロールして、人間の「非人間性」を制限していくアプローチこそが、マルクスが訴えた最も重要な主題なわけで、そもそもマルクスは「カント主義者」なわけであろう。

カントは、人間は理性的存在者として諸目的を設定しうるだけでなく、同時にまた、みずからの<理性>素質のたえざる自己実現をみずからにおいて課せられている存在としてそれ自身「自存的目的」そのものとして存在する、と考える。そして彼にとって道徳性の成立根拠もこの点からのみ導き出される。すなわち、神からでも、いかなる外的権力ないし権威からでもなく、人間および人間性自身から、である。まさにこの点が重要である。この関連にかんするカント自身の言葉の一例を以下に示しておこう。

「道徳性は、その下でのみ理性的存在者が目的それ自体であることができる条件である。なぜなら、理性的存在者は、道徳性をつうじてのみ目的の国における立法的成員であることが可能だからである、それゆえ、道徳性と、道徳性をそなえることができる人間性と、それのみが尊厳をもつ当のものである。」(カント、前掲書、一四六頁)

「尊厳」Wurdeの意味については、カントはそれを「内的価値」と呼び、これは「価格」によっては表せないとかんがえる。人間の本質的価値は「内的価値」そのものであって、それ自身は「あらゆる価値をこえていて、いかなる等価物をもゆるさない」と言われる。「価格」が外的比較のなかでの相対的価値であるのに対して、「尊厳」は比較をこえたものだという意味で絶対的価値なのである。
こうしてカントは、人間をもとことんあますところなく<モノ並みに>扱おうとする(というよりむしろ、そうせざるをえぬ)<資本の論理>に対して厳しい対決の姿勢を事実上宣言している。

まあ、そうだよね。どう考えても、「非人間性」を礼賛したがる「ポストモダン」って、おかしいでしょ。ほんと「悪魔」だよね。

しかし、こうやってヘーゲルとか読んでいても、民主制なんて別に支持してないよな。カントもルソーも民主制支持してないし。むろんトクヴィルやバークは民主主義反対。最近は妙に「民主主義」なる言葉がバブってるわけだけど、それをすばらしいって言ったのはいったいだれということになっているんだ?
@hazuma 2017/01/09 01:23

一般に、民主主義の出発点は、ベンサムを始めとした英国の功利主義とされている。しかし、それ以上に民主制を最も重要な制度とした人こそ

ではないか! というか、なんで、われらが東浩紀先生はマルクスを「無視」したんだろう(というか、彼の言う「哲学」ってなんなの)?

文中に「民主制は国家制度の解かれた謎である。」という表現がある。これは言い換えれば、「国家制度の存在理由とは何かという問いに対する正解は、「民主制」 の存在であって、それ以外ではありえないということなのである。つまり、「人民の自己規定」という在り方は国家制度の本質そのものを表しており、この本質の現実形態が「民主制」にほかならない、というのがマルクスの基本的な把握である。

あと一つ、言っておきたいんだけど、上記の引用でも、カントは民主制を支持していないとか言っているけど、われらが東浩紀先生がそう主張しているソースとして提示しているのが以下の個所なんだけど:

たとえばカントはつぎのように述べている。「そこで次のように言えるであろう。国家権力をもつ人員(支配者の数)が少なければ少ないほど、またこれに反して国家権力を代表する程度が大きければ大きいほど、それだけいっそう国家体制は共和制の可能性に合致し、漸進的な改革を通じて、ついには共和制にまで高まることが期待できる、と。こうした理由から、この唯一完全な法的体制の達成は、すでに貴族制の方が君主制の場合よりも困難であるが、民衆制になると、暴力革命による以外に不可能である」。イマヌエル・カント『永遠平和のために』宇都宮芳明訳、岩波文庫、一九八五年、三六頁。強調を削除。

ゲンロン0 観光客の哲学

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しかし、ね。

カントは、フランス革命(一七八九年)の成果である。第一共和制の崩壊の後も、大革命の掲げた<自由・平等・博愛>の基本理念を支持しつづけたのであったが、その彼は、その大革命に先立つ一七八四年一一月には『ベルリン月刊』誌に「世界市民的もくろみにおける一般史への構想」を公表している。

つまり、カントはフランス革命を全否定しているわけではない。むしろ、理念として支持している。そういった視点で上記の引用を考えれば、カントは「暴力革命以外に不可能」と言っているだけであって、民主主義を否定しているわけじゃないでしょう。つまり、「難しい」と言っているだけで。というか、そもそもここで言っている「民衆制」って、

のことであって、現在の民主主義である、間接民主主義こそ、カントの言う「共和制」そのものなわけじゃないですか! 私にはカントが民主制を支持していないなんて主張は、明らかな「デマ」だと思うんですけど、優秀な学者さんたちは、どう思われますかね...。

マルクスの人間主義―その根源性と普遍性

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