哲学ではなく「セオリー」

この前のAFCの浦和の戦いは、強力な攻撃陣をもつ中国のチームに、まさに「デュエル」で、つまり、守備でハードワークをして勝った試合だったわけで、日本代表のオーストラリア戦を思い出させるような展開であった。それを、ハリルホジッチ監督は「モダンサッカー」と呼んだわけであるが、以下の記事では、その欧州での「流れ」を説明している。

----まずは、2017年10月にニュージーランドおよびハイチと戦う日本代表について伺います。オーストラリア戦後の五百蔵さん結城さんの記事は大きなアクセスを記録したこともあり、様々な意見が飛び交いました。記事自体への意見はさておき、「ハリルホジッチのやり方は守備的だ」という意見もあったのですが、インサイドハーフ井手口陽介と山口蛍を置きアンカーに長谷部誠を起用する布陣はそんなにも「守備的」なのでしょうか?
結城康平(以下、結城) 現代のサッカーのトレンドでいうと、プレミアリーグではチェルシーが中盤にカンテとバカヨコ、マンチェスター・ユナイテッドはマティッチとフェライニといった守備力のある選手を並べるケースも増えています。そういうトレンドを考えたとき、ハリルホジッチがやっていることって正道なんですよね。日本では「守備的すぎる」って意見が出ちゃうんですけど。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171010-00010000-victory-socc

----それはどういう部分を観ての評価ですか?
五百蔵 単純に守備力が高いだけじゃなくて、リンクプレーもできるのですよね。ハリルホジッチはゲームメーカーやエクストラプレイヤーを基本的にサイドに置くタイプなので、3センターに求める戦術的効果は恐らくマティッチやカンテのようなもの。発想は一緒。
結城 南アフリカワールドカップで、(オランダ代表の)ファンマルバイク監督がデヨングとファンボメルを中盤に並べたんですよね。「おいおい、さすがにやりすぎだろう」と当時は思ったのですが、今やトッテナムではエリック・ダイアーとビクター・ワニアマで組んでいたりする。プレスを仕掛けるなら、守備面で計算出来る選手を置かないと話にならないんです。リバプールヘンダーソンエムレ・ジャン、ワイナルドゥムにしても豊富な運動量に加え、3人とも守備力が非常に高い。
五百蔵 この傾向と、ポジショナルプレーとディフェンスの方法論を結びつけてチームづくりをするのって同期すると思うんですよね。要するに、ポジショナルプレーができれば中央はリンクマンだけでいい。守備ができて、リンクプレーができれば。どこに預ければいいかは、戦術上決まっているわけです。そこにプレーメーカーは必要ないんです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171010-00010000-victory-socc

まあ、これを「守備的」と言ってしまうと、つまらないわけで、つまりは「戦術的」な部分的最適化として、ある部分を「守備」を重視しているということで、まあ、そういった流れ、ということなのであろう。
全然関係ない話をするように聞こえるかもしれないが、よく「哲学」という言葉が使われる。これは、古代ギリシアで「知への愛」という意味だというが、つまりは「愛」だと言っているのだから、ようするに、「オタク」のことなのだ。
つまり、「哲学」は、

  • (知に耽溺している)自分への愛

のことを意味しているのであって、一般に言う「学問」とか「セオリー」とはなにか違った現象のことを説明しているわけである。だから、自分を「哲学者」だと言っている人は、まさに自分を「(哲学を語ることのできる)英雄」であるかのように、自らの「唯一性」を強調して、適当なことをしゃべくりちらかして、聴衆をけむにまく。まあ、ある種の「はったり」なのであろう。
大学の数学を学ぶと、すべて「セオリー」となっている。つまり、ある種の「抽象化」がされている。それはおそらくは物理学なども同じで、なんらかの一般的な現象なり戦略なりを説明しようとすると、こういった「セオリー」化がどうしても必要になってくる。

五百蔵容(以下、五百蔵) 海外でライセンスを取るための論文と、日本のサッカー関係の現場の人の論文を観ると、一目瞭然の違いがあって。それは、現象を抽象化する部分ですね。その習熟に明らかな差がある。日本のサッカー界の現場にいる人たちは、具体的なことしか言えない。個別の事象を分析することしかできない。抽象化のレイヤーを持てないから、個別の事象にある隠された関係性に気づけない。
監督の戦術を考えるときに必要な知的レイヤーというのは、個別の事象の分析じゃなくて、それらの関係性をいかに見抜くかです。アッレグリの論文とかをみると、最初から個別の事象ではなく、メカニズムを抜き出せないとダメということが前提になっていて、それを解き明かすのが私の仕事である的なことを言っているんです。日本はもうそこが違う。これは教育レベルの問題です。
結城康平(以下、結城) シンプルに感じることとしては、ヨーロッパの監督の論文はアカデミックにできている。構成がしっかりしていて、論文の体になっている。彼らは「サッカーの話をしている」という前に「学術論文を書いている」ということなんでしょうね。
五百蔵 日本でいう、研究者が書く学術論文と同レベルの視点を持っているんですよね。
結城 あとは先行研究にあたっているかどうか。グアルディオラも0トップについて「新しい戦術だ」と言われたときに「いやいや、『マジック・マジャール』時代のハンガリーで既に採用されたことのある戦術だよ」と答えたって話がありました。彼は本当にサッカーの戦術史を良く学んでいるなと思いましたね。
五百蔵 それらを個別の現象としてくっつけるのではなく、それに隠されている抽象レイヤーで理解できているんですよね。そうすると、抽象の組み換えや読み替えができる。多分それが、彼らが言っている「アイデア」のことだと思うんです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171011-00010002-victory-socc

このことは、法律であり、物理学であり数学であり、なんでも同じなのだ。例えば、「俺はすごいアイデアを考えついた」と言う人がいたとしよう。その内容を確認したとして、次に問われることは、「本当にそのアイデアはその人が最初なのか」を問うことであろう。もしもそれが「最初」でないのであれば、そこに「セオリー」の歴史がある、ということになる。
しかし、これを「どうでもいい」と考えるのが「哲学者」だ。哲学者は自分が思い付いたという「唯一性」が絶対的なので、過去などどうでもいい。なによりも「自分が」という連中だ、ということになる。
つまり、哲学とは「ボク思い付いた!」をホルホルする「しぐさ」のことであって、基本的にすべてが

  • ポエム

なのだ。誰も何を言っているのか、理解ができない。それなのに、やたらと本人は「オレ分かったぜ!」とホルホルしている。そういう意味では、全てが「悟り」なのだろう。彼らには、それで周りが「すごいですね!」とチヤホヤしてくれるのだから、それで満足なのだ...。