八木雄二『裸足のソクラテス』

ソクラテスといえば、古代ギリシアの現代でも、その言葉が使われる「哲学」の始原のような存在として、今でも言及されるわけだが、なぜそうなのかといえば、言うまでもなく、プラトンの多くの著作の「対話篇」の主人公がソクラテスだからだ。
ところが、そのプラトンの著作は中世を通して、ほとんど知られていなかった。つまり、古代ギリシアの哲学と言えば、アリストテレスのことであって、アリストテレスの多くの著作は、中世においても翻訳され、知られていたのにもかかわらず、プラトンはまったく知られていなかったというのである。
なぜなのだろう?
この事情を、例えば、日本の古事記日本書紀の関係に比較したくなるかもしれない。日本書紀はその作成の段階から、歴史上から忘れられたことはなく、常に、その時代の日本人はみんな、日本書紀に言及してきたわけだが、古事記は本質的には、江戸時代の本居宣長が「最初」に「発見」し、「翻訳」した、というのだから、じゃあ、なぜそうだったのか、というわけであろう。

ただし、プラトンは、一般に考えられているほどソクラテスの熱心な弟子ではない。クセノポンも、プラトンが特別の弟子仲間とは思っていなかったと思われる。クセノポンの『ソクラテスの思い出』のなかでも、プラトンはちょっと触れられているのみである。プラトン自身の思想は、明らかにピュタゴラスに近い。ピュタゴラスは、ペルシア大帝国の圧迫でイオニア地方の故郷を追われた哲学者であり、出自はプラトンと同様、貴族(騎士階級出身、土地所有者)だろう。幾何学の研究、天体の研究、音楽の研究で、特異な功績を残した哲学者である。

プラトンは、ソクラテスを主な話し手とする、たくさんの対話篇を書いているが、わたしの見立てでは、生前に公刊したのは、『ソクラテスの弁明』(以下、『弁明』と略す)だけだったと思われる。ほかの作品は、公刊せず、ごく親しい人に見せただけか、あるいは、自分がつくった学校、アカデメイアで生徒に読ませただけだったと思われる。

プラトンの作品のうち、『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスの死刑の当日のルポルタージュなので、プラトンは、これについては、おそらく、「正確」なソクラテスの姿を記述している。
しかし、それ以外の作品は、言ってみれば、すべて

  • デマ

だw ソクラテスプラトンの信仰する「ピュタゴラス学派」の学者に変えてしまって、まったく、本当のソクラテスと似ても似つかぬ、マガイモノにでっちあげてしまった。
おそらく、当時の古代ギリシアの人たちは、それを知っていたから、プラトンを低く評価したのではないか。そして、その態度が、中世まで続いたのでは。

クセノポンの二つの作品を読んでみて、わたしは本当のソクラテスの姿がヨーロッパにおいて巧妙に隠されてきたのではないかと疑うようになった。

この本に載っている、クセノポンの『家政』『饗宴』を読んで、いわば

という印象を受けた。つまり、ソクラテスの「関心」がどこにあるのかは、まったく抽象的ではない。いたって、身の周りの「農業」に始まって、

  • 日常的

なことを深く考えている(例えば、棚の整理整頓をどうするのか、といったことに始まって)。
それに対して、プラトンの書いた対話篇にでてくるソクラテスの語っていることは、ピュタゴラス教団の「教義」を語っている。これは「宗教」であって、まったく、現実的ではない。
そして、非常に困ったことに、現代において「哲学」と呼ばれている「営み」は、このプラトンの描いた「にせソクラテス」の語っている、空疎な言説(二項対立的な抽象論)を

  • モデル

にしているわけである。ヘーゲルから、ハイッデガーから、こういった「文字列操作」的な言説が、「ザ・哲学」となってしまっているわけだが、いやそれは、本来のソクラテスから言わせれば、哲学じゃなくて、

  • 宗教

と呼ばれるべきなにかでしかないんじゃないのか、と思うんですけどね...。

裸足のソクラテス: 哲学の祖の実像を追う

裸足のソクラテス: 哲学の祖の実像を追う