武田綾乃『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章』

正月はとりあえず、一年を通しても、比較的ゆっくりできる時期であり、普段あまりやらないことを時間をたっぷりとってやれたりできるということもあって、じゃあなにをやるのかということになるわけであるが、私はとりあぜず、小説を読もうかと。
もちろん、普段でも小説は読むことは読むが、あまり興趣がそそられなかったりするものは、他が優先されて、結局いつまでも読まなかったりするわけで、じゃあ、というわけでこの時期かな、と。
今期のアニメ(もう先期か)を見ていて、少しおもしろい現象だと思ったのは、いわゆる「日常系」と呼ばれる系列に連なる作品が、ほとんど定型的なパターンを見せたことで。
つまり、「キノの旅」、「少女終末戦争」、「このはな奇譚」、の三つの作品にはある共通点があった。つまり、最終回がほとんど同じ構造になっていたことである。しかし、こうやって並べるとなぜこれらの作品が「日常系」なのかと疑問をもたれるかもしれない。それは、ある

  • 定常系

に関係している。「キノの旅」のキノは常にモトラドという会話の能力をもつバイクの「エルメス」と一緒にいるし、「少女終末戦争」のちいちゃんとゆのも常に一緒にいるし、「このはな奇譚」のゆずを中心として、このはな亭の旅館の仲居のメンバーも常に一緒にいる。大事なポイントはこの「メンバーシップ」性にあるわけで、まあ言ってしまえば、「日常系」とは、この常に変わらないメンバー同士の「定常」的な関係の

  • 安定性

のことを指しているわけである。安定しているから、常にその関係は「快楽」的な関係となるわけだし(毎日同じじゃつまらないから、それなりに刺激的に過そうと、お互いが注意し合うわけで)、そういったお互いの「気の使い合い」がおもしろい、というわけであろう。
このように考えたとき、例えば、アニメ「けいおん」は作品の最初で、基本的に軽音部のメンバーはそろうわけだし(後から後輩のあずにゃんが追加にはなるが、たった一人というのもあり大きな影響はない)、典型的な「日常系」と言えるだろうし、アニメ「ラブライブ」や「バンドリ」は、すべてのメンバーがそろった「後」は、基本的に「日常系」と同じ定型的なストーリーとなっているわけで、特にラブライブは、三年生の「卒業」と共に、アイドルグループの解散がリンクされているところに、この「日常系」のフォーマットを維持しようとする意志が感じられるわけであろう(この事情はアニメ「ガルパン」において、三年生の卒業を「最終章」と言っていることとも関係する)。
キノの旅」の最終回になぜあの話がもってこられたのかは違和感を感じるわけであろう。キノがかたっぱしから羊を殺しまくるという、はたからみたら、ぶっそうなこのストーリーはどう考えても、最終回にふさわしくないのではないか、と。しかし、それはこの作品を「日常系」として見ていない感想だと言える。あのストーリーの特徴は、キノがモトラドエルメスを、いったん手放さなければならなかった、という所にポイントがある。つまり、これは

なのだ。もしかしたら、あのまま、キノとエルメスは別々の道を歩き始めたかもしれない。しかし、そうならなかった。その「日常の危機は、回避される。偶然に日常の危機が起きながら、偶然に日常の危機が回避されることで、大きな示唆を与えているわけである。
同じことは、「少女終末戦争」、「このはな奇譚」にも言える。「少女終末戦争」では、ちぃいちゃんは謎の宇宙人にゆのが食べられたことで、もうゆのとの二人旅が続けられないのではないか、と不安になる。「このはな奇譚」のゆずも、神社にお参りの途中で別世界の、このはな亭のない世界にまぎれこんだことで、もうこのはな亭のみんなに会えないんじゃないかと不安になる。両方とも最後は「日常」に戻るわけだが、その定常性の「崩壊」の予感が、逆にそれまでの定常的な関係を、走馬灯のように振り返らせ、その「価値」の再認識をさせるわけである。
さて。「響け!ユーフォニアム」の一期はすでにアニメ化もされているわけであるが、この作品はそういった日常系とは違う印象を受ける。それは、事実、掲題の作品のように、三年生が卒業した後の吹奏楽部の姿が描き続けられていることからも分かるように思われる。
この作品をひとまず仮で、名前を付けるとしたら、「問題系」とでも言いましょうか。
北宇治高校の吹奏楽部は去年、全国大会に出場したことから、経験者を含め多くの一年生部員が入部してくる。しかし、そうだからといって、なにもかもが順調に進むわけではない。その象徴として、彼ら一年生部員の行動はどこか、劇画チックに、エキセントリック性を強調される形で描かれる。
主人公の黄前久美子は、いわばこの「安定系」における「虚焦点」のような役割として描かれる。彼女は、例えば、麗奈のように、将来の目標まで最初から決めているような、一つのパターンに固定された視点をもっているわけではない。久美子が常に思っていることは、

  • せっかく毎日を一緒に過すのだから、仲良くしたい

という「目標」でしかない。彼女は常にその「最適化」を考慮して過す。次々と彼女の前に現れる、さまざまな「問題」を抱えた先輩であり後輩は、あまり、全員の前では話すことのはばかれるような、少し恥かしい自分のトラウマを久美子に話すことで、少しずつその「解決」を見つけだす。なぜ、みんなは久美子に相談するのか? それは、久美子が「なにものでもない」から、ということになるのだろう。彼女には「党派」性がない。分かりやすい定型の「持論」がない。
言わば、彼女にはなんの意見もない。しかし、彼女はずっと「悩んで」いる。それをことでは「日常系の悩み」と言ってもいいだろう。

「奏ちゃんは素直になれないかもしれないけど、でも、私は奏ちゃんに夏紀先輩のことを好きになってほしいなって思う」
こうして二人で過ごすのは嫌いじゃない。けれど、ここに夏紀が加わればもっと楽しいだろう。せっかく同じ楽器になったのだ。みんなで仲良く過ごしたい。そうした考えは、単なる久美子のエゴだろうか。

これが「エゴ」というより、これが「日常系」の条件なのである。日常系とは一言で言えば「ライク(like)」の体系だと言えるだろう。みんながみんなに「好意」をもっているため、そうやってみんが一緒にいることにストレスがない。同じユーフォニアムの担当である、3年の夏紀と、2年の久美子、1年の奏がなぜ、この場所に一緒にいないのかといえば、この場での、奏の久美子への相談が、夏紀に関係したものであるために、その内容を夏紀に聞かれたくないからなのだ。久美子という「虚焦点」は、奏の夏紀への複雑な感情を、いわば

のように吸い込んで、そのブラックな感情を打ち消す。久美子のこの「なにものでもない」という態度が、結果的に、そういった人々の負の感情を、相対化して打ち消す。
この場面を例にして考えるなら、この部活帰りのお茶しに行く場面で、3年の夏紀と、2年の久美子、1年の奏が

  • 当たり前

のように一緒にいることこそが「日常系」の条件なのであって、この作品はまだ、その境地にまで辿り着いていない。というか、作品が進むにつれて、そういった関係は次第にできあがっていくのだが、それと同時に、別の多くの

  • フラグ

が生まれてくるため、それらが「問題」となっては、久美子を中心としてその「フラグ」は回収されていく。そういった意味では、この作品は

  • いかにして「日常系」は生まれるのか

のその生誕の動的な過程に方にこそ、作品の焦点があてられている、と言うこともできるのかもしれない...。