山川仁『孤独なバークリ』

前回も書いたが、例えば、最近出版されたカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』の前半において、カント、いや。カント以上に、バークリーの

  • 観念論

が「仮想敵」として記述されていたことが思い出されるわけで、ようするに、なんというか分析哲学というか科学哲学寄りの人たちによる

の延長から、こういった連中の、なんとも「観念論」的な哲学の分野で使われて、馴染みのある表現として使いふるされてきた語り口を、とにかくこの機会に一掃することが、なんとも党派的な目標として、直近の橋頭堡とされているんじゃないのか、といった疑いさえもちたくなるような口ぶりの「きつさ」が窺えるのはなぜなのだろう?
おそらく、この流れを強く押し進めているのが、分析哲学におけるクワインによる「認識論の自然化」といったキャッチフレーズが強く意識されているのだろう、と思われる。
ただ私の印象としては、ここでクワインが自らの立場を、ある種の「進化論」によって「正当化」したことは、ちょっとした違和感を私に与えた。というのは、だとするなら、私たち人間も、その「進化論」による(ダーウィン的な意味での)「突然変異」の波をまぬがれないからだ。つまり、私が素朴な違和感を覚えるのは、「今ここ」と「未来」の

  • 比較

といったところにまで、科学コミュニティ内の「言語ゲーム」による「合意」に含意を及ぼそうとすることには、強引な印象を受けてしまう。しょせんは、今ここの言語ゲームは、今の科学コミュニティ内において留めて考えるべき問題のように思われる。
しかし、より科学の「権威」を強調し、この科学の成果に対して、宗教における

  • 教典

の役割に似た含意を読み込もうとする人たちにとっては、それは一種の科学に対する「侮辱」の態度に思われるのかもしれない。科学は

  • 進化

する。いや、科学は

  • 進歩(!)

するのであって、科学に「後退」の文字はありえない。どこまでも前進するこの運動はいずれは、この世界の「真理」にどこまでも近づき、辿り着くのは、もしも科学を一つの宗教的な運動と解釈するなら、それは

が「約束」している、人間が神に「近づく」ことを、神が人間に「もっと私に近づいてこい」と義務として強いている宗教的ドクトリンなのであって、これは科学信者としての、彼らの信仰的義務をなんとかして果たしたい「実践」として解釈できるのかもしれない。
まあ、ここまで言ってしまうと、まさに、カントによるヘーゲル批判に近いものになるわけで、カントが理性の有限性を強調するのに対して、ヘーゲルが現象の「本質」へと観念をどこまでも近づけていく運動を考えたわけだが、そういったヘーゲルの動機には、やはり、キリスト教的な教義における、人間は神によって、どこまでも神に「近づく」ことを強いられているし、それを人間は義務として目指さなければならないし、神は他方において、それが「実現できる」ことを約束しているはずだ、といった「信念」に強いられている、そういった宗教的な確信のようなものが強いている、ということになるのだろう。
私がここでこだわっているのは、一言で言えば、

  • 盲目的に科学を「妄信」する

ことへの警戒だ、ということになる。カントが自らの哲学を「批判哲学」と名付けたように、もしも科学に対して「批判的態度」をもつことができるとするなら、それは、なんらかの「立ち位置」が可能にするはずなのであって、御用学者的に科学に片足どころか両足もろとも突っ込んだときに、どうやって批判的な距離を可能にするのだろう、といった疑いなのだ。
例えば、そのことは掲題の本が問題にしている

  • バークリ

においても関係しているのではないか、といった疑いを、掲題の本を読みながら感じさせられた。

しかし、専門家による評価や理解は別として、国内外を問わず、一般的にバークリの哲学がどれほど忠実に理解されていいるかを考えてみれば、状況はあまり好ましいものではないように思われる。たとえば、一時期、有名な歴史的哲学者の学説を一般向けに手短に紹介した書物を複数出版したことで知られているポール・ストラザーン(ちなみに、彼はバークリが学んだアイルランドのダブリン大学トリニティ・コレッジの出身者である)は、『90分でわかるバークリ(Berkeley in 90 Minuites)』において、つぎのように述べている。少し長い引用になるが見てみよう。

バークリは哲学に汚名を着せる哲学者だ。はじめて彼の著作を読むと、あなたはそれをばかばかしいものと思うだろう。そして、そのとおりにあなたは正しいのだ。バークリ哲学は、物質の存在が否定されている。彼によれば、物質的な世界などはない。(略)哲学が長い間にわたって常識に縛られたままでいることはできなかったというのはおそらく不可避のことだったのだろう。(略)バークリによれば、もしわれわれの知識がもっぱら経験に基づいているのだとすれば、われわれが知ることができるのはわれわれ自身の経験だけである。実際に、われわれは、世界について知っているのではなく、ただ世界についてのわれわれの個々の知覚を知っているのみである。そうであれば、われわれが知覚しないときに、世界にはなにが起こっているのか? われわれに関するかぎり、たんに世界は存在するのをやめている。だから、バークリによれば、あなたがなんらかのものを見ていないときには、それはそこには存在していない。このような立場はつぎのような幼児によって採用されている。それは、"もうこれ以上ほうれん草とプルーンピューレ[=離乳食]を食べたくないとき、目を閉じるような幼児のことだ。しかし、われわれが成長して、ほうれん草とプルーンを別々に食べる(あるいは、まったく食べない)頃には、われわれはたいていそのような態度から抜け出してしまっている。しかし、バークリはそうではなかった。彼によれば、もしわれわれが見たり、あるいは、触覚や嗅覚のような他の仕方で知覚したりするのでなければ、木はそこに存在していないのである。だとすれば、木はどうなっているのか? 彼は、神を恐れる人間で、やがて主教となった人物だ。(略)われわれが世界が存在しているのを知ることができるのは、われわれが世界を知覚しているときのみだ。しかし、われわれが世界を直接知覚しているのではなくても、世界はすべてを神の継続的な知覚によって支えられている。バークリの経験論的な結論(絶え間のない実在はない)と彼の驚くべき解決策(つねに存在する神)はほとんど詭弁に聞こえる。(Strathern, 2000, 7-10)

このように、「存在することは知覚されることである」というテーゼによって、バークリは常識とは程遠い学説を唱えた哲学者であると少なくとも一般的にはみなされているのだと言える。

それだけではなく、もし「存在することは知覚されることである」という考え方によって、世界とは私の意識と私の意識に現れるものにすぎないと考えられるのであれば、世界とはまさに私や私が知覚するものであって、それ以外にはなにも存在しないという独我論と呼ばれるような哲学的立場にバークリは肩入れしていたと考えられるかもしれない。ふたたびストラザーンの言葉を見てみよう。

バークリの経験論によって、彼は独我論であること余儀なくされる。それは自分だけが世界に存在すると信じる者のことである。結局のところ、もし私の経験だけが実在のものだとすれば、私はどうやって他のだれかが存在していることを知りうるのか? 私がだれか他の人を見ているとき 、私が経験しているすべてのものはさまざまな印象の集合体である。このことから、常識によって、私はつぎのように推論するかもしれない。このような他の人物が存在するのは、まさに私が存在しているのと同じような仕方であろう、と。しかし、そのようなことを私は実際に経験しているわけではない。それは、私の知覚のいずれのものにも基づいてはいない想定である。(Strathern, 2000, 17-18)

しかしね。これって、まさに、カンタン・メイヤスーが『有限性の後で』で書いていたことだよねw というか、戸田山さんの本や植原さんの本が陰に陽に「ほのめかしていた」ことなんじゃないかな。ようするに、実在論はこういった「観念論」の主張と

  • 戦っている

んじゃなかったかな? どういうことだろう? なにか、日本の文脈はおかしいのだろうか?

同じく歴史的哲学者の入門書シリーズ(Wadaworth Philosohers Series)である『バークリについて(On Berkeey)』の巻では、バークリの立場がいわゆる独我論とみなされないこと、しかし、バークリが実はそのような立場を批判しようとしていたことについて、つぎのように述べられている。

自我 - 中心的な状況を深刻に捉え、いかにしてさまざまな物が世界において互いに独立して存在するかということを判断したり知ったりするための基礎を見出すことができないと考える人はみな独我論に肩入れしているように見える。このような学説は、存在するのは、あるいは、存在すると知られうるのは、独我論者の心とその内容だけとするものである。独我論懐疑論の中でもとりわけ強力な形態のものであり、まさにバークリが(懐疑論無神論に反対する)『ハイラスとフィロナスの三つの対話』の中で立ち向かおうとした種類のものである。(Umbaugh, 2000, 13)

以上で見てきたような、バークリが採用していると一般にみなされている考え方、つまり、私が知覚していないときに物ないし世界はまったく存在していないとか、私や私に現れる知覚世界以外にはなにも存在しないといった考え方は明らかに私たちの常識的な物の見方に反するものだと言えるだろう。しかし、本書でこれからくわしく見ていくように、バークリはまさにわれわれ一般大衆に寄り添い、われわれの「常識」を擁護するということを自らの立場として強く打ち出していたのである。

まあ、そうだよね。バークリが現代の哲学入門書で

  • 常識外れ

として扱われ、ボロクソにけなされている状況は一体何がそれを強いているのだろう? よく考えてみてほしい。わざわざ

  • 常識外れ

のことを、その時代の大衆向けに言う人がどこにいるだろう? それはなにか「秘密結社」のような活動をイメージしているのだろうかw または、保守派がイメージするサヨク
まあ、普通に考えて、そんな人はいないよね。むしろ、逆なんじゃないですかね。多くの人が考えたことは、新しい「新奇」なアイデアが、ほとんど反省的な機会を経ることなく、まさに「権威」として、大衆を抑圧し始めるときに、それへの防衛的な

  • 反発

として始まるんじゃないですかね。

若い頃のバークリがロックの『人間の知性に関する試論(An Essay concerning Human Understanding)』(一六九〇年)からおおいに刺激を受けたことは周知のとおりである(以下、本文中では同書のことを『人間知性論』と略す)。

バークリが批判するロック的な「物質論(materialism)」は、当時の先端の科学理論である「粒子仮説(corpuscular hypothesis)」に基づき、世界の諸現象を説明するために「物質」の存在を想定する立場である。

バークリは、日常生活において、われわれが感覚によって経験的に知覚し、そこに色や大きさや形や味や匂いなどが備わっていると素朴に考えるようなさまざまな対象(具体的には、われわれの環境世界やそこにおける動植物といった自然物、人間の身体、あるいは、机やパソコンといった人工物)の存在を否定しているわけではない。そうではなく、彼がその存在を否定する物質とは、われわれが経験的に知覚する諸対象を生み出す原因となり、それ自体は、色や匂いや味などを持たず、形や大きさなどを持つと想定されるもののことである。したがって、バークリが物質の存在を否定しているからといって、日常的にわれわれが常識的な意味で身の回りの物とみなしているさまざまな対象の存在を否定しているわけではけっしてない。

なんというかな。こういったことって数学を専門に学んだ人間なんかだと、よく世間で感じたりするんだけれど、ようするに

  • 言葉

リテラルな「意味」と「定義」は違うんだよね。これは「形而上学」なのであって、それそのままに読んじゃいけないんだよね。数学だったら、それを「公理主義」なんて言ったりするけど、公理ってようするに「無定義用語」ってことだからね。ユークリッド幾何学だったら、点とか線という「言葉」に

  • 定義

がないんですよ。つまり、この言葉は「なにも言っていない」として「読まなければいけない」わけです。そういうトレーニングを受けるんですよね。
上記も同じような話に聞こえるわけで、バークリがこだわっているのは大衆が話題にしているような話じゃないんだよね。彼が「戦って」いるのは、

  • ロックの哲学における「物質」という言葉

なのであって、一般の大衆が使っているような意味での「物質」という言葉じゃないわけです。だったらさ。私たちも、まずはそう読まないとフェアじゃないんじゃないですかね?
そして、そう考えてみると明らかに、ロック哲学における「物質」の定義は、今の常識からいっても「奇妙」なんじゃないですかね。明らかにバランスが悪いし、言うまでもなく、今の自然科学と比べても、整合性がとれていない。つまり、ロック哲学とバークリ哲学の

  • どっち

が現在の一般的な常識的な哲学として整合的か、と考えれば、バークリはけっこういいんじゃないか、と言いたくなるんですよね。
じゃあ、なぜそのように現在、バークリは受け入れられていないのだろう? それはおそらくは、「科学」が一つの「権威」として機能しているから、とは言えないだろうか。科学の

  • 進歩

の階梯の一つであった「粒子仮説」には今でも言うまでもなく「権威」があるし、それなりの科学的な正しさを含んでいるわけで、こういったものに対して、シロウトが簡単に批判的な姿勢をとりにくい、ということが関係しているのではないだろうか...。