科学・数学における男女の成績差?

そもそも、勉強が「できる」とは、何を言っているのだろう? 一番分かりやすいのは、中間テスト、期末テスト、大学センター試験、予備校が行う大学試験模試、の

  • 成績順位

がそれにあたる、と思われている。では、そこで「問われれいる」ものとはなんだろう? 基本的には、

  • 教科書の<暗記>

である。基本的に、大学入試とは、学校で学んだことを問う試験なのだから、基本的に、そこにないものは出してはならない、となっている。だから、早い話が、教科書に書いてあることを、隅から隅まで「暗記」すれば、テストはいい点数がとれる。
しかし、だとするならなぜ、ここまで求められていることが分かっていながら、多くの場合に、受験者で成績に差が出るのか? それは、ここでの「暗記」を、多くの子どもたちは、深刻に考えていないからだ。
どういう意味か?
暗記をするということは、本当に「覚える」ということである。ようするに、ペーパーテストの間に、その漢字から、用語からが、すぐに、頭から出てこなければ、それは「覚えている」に入らないわけである。
しかし、多くの子どもたちは、「まさか、そんな

  • 非人間的

なことを要求されているとは思わない」わけである。大人は、そこまで残酷ではないだろう、と。
いい成績をとる子どもがなにをやっているか? また、評判のよい予備校やエリート校はなにをやっているか? 基本的に

  • 連想暗記法

であるw 馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない(なんの関係のないものを、たんに「記憶しやすい」という理由で、関連づけて覚える、というのだから)。しかし、彼らは「本気」なのだ。ようするに、ペーパーテストの間だけでも、それを暗記できていれば勝つし、そうでなければ負けるのだから、その「覚え方」なんかにこだわっている暇はない。
まあ、これが、大学入試の実体なわけであろう。
驚くべきことに、この大学入試時代の暗記テクニックは、それ以後の、大学での研究活動や、社会に出てからの、能力ということでは、ほとんど使われなくなる。なぜか? 当たり前であろう。そんな「暗記」をやってはいけないからだ。基本的に、この社会の物事は、覚えるかどうかではなく、そこに働いている

  • 構造=本質

を把握できるかどうかが問われている。暗記をしてはならない、という意味は、暗記をしなくても、その書いてあるものを、何度でも見返せばいいからだ。じゃあ、あの大学入試で問われた

  • 不毛な能力

とはなんだったのだろう? こうして、多くのエリート受験生は、その半生を挫折との戦いに強いられていく。
こう考えてみよう。
人生は短い。覚えられることも限られているし、考えられることも限られている。そうであるのに、余計なことを「連想記憶」までして覚えて、一体、なにになるのか? 私たちの人生において、「大事」なことを、何度でも何度でも考えるべきなのであって、余計なことを頭につめこむことは、人生の多くの時間を無駄にしている。
しかし、ある意味で、この人生の「真理」に気付いた子どもは、そうやって大学受験競争から離れていく。もっと大事なことを生きようとする。
そもそも、そこまでして「東大」に入ろうとすることのなにが問題だろうか? それは、そうやって東大に入った人間の

  • 人格形成

が歪むことにこそある、と考えるしかない。そこまで「頑張った」子どもは、きっとこの「努力」には、なんらかの

  • 価値

がある、と考え始める。そして、そうやって東大に入った人間と、そうでない人間との

  • 差別化

を始める。「価値」のない人間には、相応の「福祉」を与えておけばいいのであって、ここには明確な「階級」がある、と考え始める。
「東大」に入らなかったということは、その分、「遊んで」いたということであって、そうやって「怠けて」いた人間が、東大に入った人間と「同等」に扱われる、などということがあってはならない。
しかし、ね。
馬鹿馬鹿しいと思わないだろうか? そもそも、義務教育の「教科書」とは、普通に

  • 日本語

ができれば「通じる」ように書いてある内容であろう。そのテキストを巡って、その重箱の隅をつついたような、「覚えてますかゲーム」をやることに、なんの意味があるのだろう? この教科書の内容に並行して、教師が生徒に、語りかけ、教師がその生徒の反応から、

  • その生徒が、この教科書の内容を理解している

と受け取ったならば、それで「合格」でいいではないか? そもそも、それ以上の「能力」ってなに?
教科書は、普通の日本語の能力のある人なら、理解できるように書いてある。あとは、各生徒が、その「理解」を、そういった

  • 普通の日本語のやりとり

の中で、身に付けていったと、教師が受け取るかどうかの差でしかない。なぜなら、そもそも最初から、それは「普通の日本語の能力があれば理解できるように書いてある」からだ。
ここまで書いてきて、私は以前に、この問題に関連して、記事を書いたことを思い出した:

グーグル社の女性差別的発言社員の解雇 - martingale & Brownian motion

ここにおいて、哲学者のピーター・シンガーは、グーグル社を女性差別を理由にして解雇された、ダモアの主張には一理ある、と世の中の「常識」に反して、対抗しようとする。つまり、プログラマという職業において、男性の採用数が女性より多いことに対して

  • 性差別ではない「原因」を考えられる可能性がある

と言う。ようするに、ピーター・シンガー

  • 生得的

な差異が男女にはあって、それがこの結果をもたらしている可能性がある、と言いたいわけである。
ようするに、ピーター・シンガーは、カントが語った「人間の尊厳」が

  • 曖昧

という理由で批判したように、「男女平等」も、「疑わしい」とする。なぜなら、男女には「遺伝子」という、れっきとした「生得的」な差異があるからだ、というわけである。そうである限り、男女には、なんらかの「差異」が

  • 存在

することは間違いない。あとは、その差異が、この場合の「プログラミング」の能力に関係しているか、ということになるわけだが、ピーター・シンガーにとって、大事なことはそこじゃない。彼に言わせれば、本質的に

  • 人間の尊厳
  • 男女の平等

は「間違っている」ということが大事なのであって、あとはどれだけ「間違っている」かの「差異」の話でしかない、というわけだ。
功利主義とは、帰結主義と言われるように、ピーター・シンガーが戦っているのはカントである。カントの「人間の尊厳」「男女の平等」は、彼に言わせれば、それが「曖昧」である限り、絶対に認められない。帰結主義者は、そういった先験的な定言命法を絶対に受け入れない。彼ら、功利主義者の「理性主義」とは、

  • 計算

を経ていないものを、全て疑う、ということだ。実際に計算してみて、その結果がそうなっていたら、受け入れるし、そうでなければ、そうでない。常に、この原則を離れない。この場合の、ダモアのプログラマにおける、男性優先の正当化という、明らかな

も、実際に「計算」してみて、その「結果」において判断されなければならないという意味で、シンガーはダモアの「解雇」は不当だ、と強弁する。
さて。この場合、このピーター・シンガーのダモア擁護は、どこまで正当性があったのか、ということになるであろう。というより、私の立場から言わせてもらうなら、なぜピーター・シンガー

  • 本質的に間違えているのか?

ということにある。
それについては、上記のブログ記事で、私なりにまとめているので、それを繰り返さないが、最近、以下の記事があった:

シミュレーションの結果、大学におけるSTEMのクラスでトップ10%に入る生徒の数は男女で等しいことが示されたとのこと。トップ20%の成績であれば著名な大学で科学の勉強をするのに十分であり、7.6%というジェンダーギャップは、「STEM分野に進む女生徒が少ない」ことの直接的な理由になっていないと研究者は述べています。
つまり、Summers氏が言うところの「適性の変動においてジェンダーの差が存在する」という主張は全てが間違っているわけではありません。変異性は確かに存在し、これが「傑出した人物は男性だ」という見方につながっているといえます。ただし、成功した科学者の多くは「普通に勤勉な人々」であり、そのほかの例外的な能力が必要だという人々の思い込みが、男女不平等を継続させている可能性があると研究者は述べています。
STEM分野の女性はハラスメントやステレオタイプなど、能力とは別の部分で壁にぶつかることがありますが、「この壁がなくなるまでは、変異性におけるわずかなジェンダーの差異をSTEMに女性が少ないことの理由として持ち出すべきではない」と研究者は述べました。
科学や数学の分野において男女に成績の差があるのか、160万人の高校生のデータから判明したこととは? - GIGAZINE

とりあえず、「トップ10%」に入るかどうかというレベルでは差異が見られないという意味で、この場合の「差異」の原因として、ジャンダーギャップを考えることは正しくない、としている。
このことは、上記までの議論と通底しているわけで、そもそも「テスト」とは、普通の日本語なら日本語で理解できることを聞いているわけで、日常生活を送れているという時点で、ほとんど、その問題を解いているのと変わらないわけだ。そのことは、数学であれ、科学であれ、なにも変わらない。こんなレベルで差異がでるなら、その問題の作り方自体に、どこかしらの問題がある、と考えるべきであろう。
ただし、そのことは、ここにジェンダー差があると言うことが「間違っている」ということを意味しているわけではない。つまり、なんらかの差はあって、その原因として、「成功した科学者」において

  • 普通に勤勉な人々

以外の傑出した何かがおおよそ見られない、ということから、必然的に考えられる推論は

  • 現在あるさまざまな、女性へのハラスメント的な社会慣行や、ハラスメント的な社会システム

が、こういった「傾向性」に、さまざまに影響を与えているのではないか、という推論なわけで、最後の主張は、そもそも現代社会が、

  • 人間の尊厳
  • 男女の平等

を「実現していない」という時点で、なぜそうであるのに、「帰結主義」的に結論がだせるのか、を問うているわけで、ようするに、ピーター・シンガーのダモア擁護がグロテスクなのは、このように、ある種の循環論法になっている(それは彼のカント批判においても変わらないw)、ということを自覚していない、というところに問題があるわけであろう...。