深夜アニメと「鬱展開」

この前から、経済学における自由競争(=自生的秩序)と、生物学における進化論は違うものだ、ということを書いているわけだが、このことは、深夜アニメにおいて、さまざまに

  • 戦い
  • 決闘
  • 戦争

が描かれながら、その結果における「死」に、正面から向き合わない姿勢にこそ、この問題が象徴されているように思われるわけである。
もしも上記のものを「進化論」型で考えるなら、死者は当たり前ということになる。そして、その死を、作品はどう描くのか、ということが問題になる。なぜか? 当たり前である。私たちは生きているのである。その私たちが、毎日顔を合わせていた親友が急に死んだら

  • ショック

を受けるからだ。そのことを儒教は「喪に服す」と言ってきた。何日も、家に篭り、食事もとらずに、深く内省する。その「過程」は、死者の、生前の「行動=フラグ」の意味はなんだったのかを考えることを強いられる過程を意味しており、この過程を経ることで、死者の「意味」とはなんだったのかを、自らの血肉とするわけであり、こういった過程なしに、人間が人間であり続けることは不可能なのだ。
しかし、「これ」をアニメの主題とすることは、なにを意味しているのか? 言うまでもなく、アニメは、その人の「死」に至るまでの、さまざまな「フラグ」を丁寧に描き、その「死」の後に、喪の服することになる親友の「内省」の過程を、そういったフラグとの関係において、

  • 描かなければならない

ということになるだろう。つまり、これを行っていない一切の、深夜アニメは、たんなる

  • 鬱アニメ

なのだ! そもそも「自然界」は、なんのルールもない、アナーキーな世界であるわけで、そこにはなんの「慈悲」もない。経済学で言うような「合理性」も働かない。つまり、こういったレベルで

  • 戦い
  • 決闘
  • 戦争

とか言っている連中は、なんらかのロマンティシズムに酔っているだけなのである!
しかし、である。
こういった一連の近年の、深夜アニメの傾向性を指摘した上で、実は、もう一つの「方向」の作品郡があることを指摘しないわけにはいかない。
その典型例が、村上春樹の『ノルウェイの森』だと言っていいだろう。ようするに、

  • 主人公を「成長」させるために、ヒロインを「殺す」

パターンである。ヒロインは、なんの脈絡もなく、ストーリーの途中で、命を落とす。それは、上記で何度も指摘しているように、この作品世界が

  • 戦い
  • 決闘
  • 戦争

に覆われているのだから、この事態がいつ起きても、おかしくなかった、と言えば簡単であるが、ところが、主人公は

  • 君の死を乗り越えて、「成長」するよ

とうそぶいて、一人だけ、なんの意味もなく生き残り続ける。まあ、典型的な例がアニメ「コードギアス」のシャーリーなわけであるがw、まあ、それについては何度も、ここで書いたので繰り返さない。
ようするに、これが

  • 文系メソッド

である。文系の男たちは、自分を好きになった女の一人や二人が「自殺」をしていないと、

  • 一人前じゃない

というわけであるw そんなことじゃ、立派な作家にはなれない。ようするに、女は「作者」によって、「主人公=作者」の「成長」のために「殺される」。
うーん。
私は正直、こういった作品郡に、うんざりしているんですよね。あまりに多すぎえるでしょう。思ったんですけれど、だったら、例えば、カントの

  • 永遠平和

が実現された世界を、作品の世界観に置いて、アニメを作られたらどうなのかな、とか思うわけである。そして、頼むから「主人公」は

  • 成長しないでくれ

ないかな。主人公が成長するたびに、ヒロインが「生け贄」に捧げられる、ゴミ屑アニメを、この世から一掃するためにも、いつまでも、いつまでも、主人公は「ゴミ屑」のままでいてくれないかな。まあ、そっちの方は、私はずっと、人間らしい、と思うからなんだけれどね...。