武田綾乃『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 後編』

(おそらくは、多くの人がアニメ化された3年生編を見て、そのストーリーを知ることになるだろうことを考えると、この原作のネタばれは極端なまでに止めておくべきなのだろうが、このブログでは、あまりそういうことを考えないで書こうと思ってきたこともあって、あまりそういった観点で書かないといった方向で、何かを言えたら、と考えている。)
うーん。この結末をどう考えたらいいのだろうか? というのは、この作品が何をテーマにしているのかに関係している。作品の最初で、主人公の黄前久美子は、中学の時の、吹奏楽部での大会の思い出から始めている。そこで、自分の隣で、金賞を取れなかったことに本気でくやしがっている、麗奈の姿を見て、自分がそんなふうに悔しがれないことに驚くところから始めている。
しかも、久美子が北宇治高校に進学を決めたのは、そこが吹奏楽部が強いことを知ってたからではなかった。というか、最初は吹奏楽部に入るかどうか、入って、またユーフォをやるかどうかさえ曖昧であった。
それがこの

  • 巻き込まれ系

として、滝先生が来て、あすか先輩にひっぱられて、どんどんとうまくなって、全国大会に行ったのが1年生編だった。そこから、2年生編があり、3年生編があり、彼女が部長となることは必然だったのかもしれない。
しかし、そのことと彼女がユーフォのソリパートを担当するかどうかは、まったく別の話じゃないのか。
3年になって福岡の強豪校から転校してきた黒江真由は謎の少女である。彼女は、久美子をさしおいて、関西大会ではユーフォのソリを担当する。しかし、彼女にはまったく、ソリに対するこだわりがない。会えばすぐに、久美子にソリを譲るという話をしてしまう。しかし、久美子はどうしても彼女に「本気」で自分と勝負をしてほしい、と語る。当たり前だが、部長である彼女の周りは、みんな彼女の味方である。なぜなら、黒江は3年になって急に現れた、ぽっと出にすぎないが、黄前は3年間、みんなと一緒にやってきた「同士」だからだ。
しかし、そう皆が思うことは、1年の頃から滝先生の方針として掲げられてきた「実力主義」に反してしまう。つまり、久美子が一年の時の、彼女たちが「実力主義」を掲げて、麗奈のソロを当時の3年から奪いとったことの正当性が傷つけられる。
さて。なぜ彼女はこのように悩まされることになったのだろうか? 私は答は一つ、はっきりしているように思われる。それは

  • 滝先生

にある。

「さっきさ、久美子ちゃん言うたやん。今年の滝サンは優柔不断だって」
「あ、はい。言いました」
「でもさ、それってぶっちゃけ当たり前の話ではあんのよ。だって、滝サンは神様じゃなくて人間なんやもん。そりゃあ悩むし、迷うことだってある。北宇治にいたとき、人間関係の管理に関しては正直未熟やなって感じることも結構あった。まだ若い先生やし、しゃあないかって」
「先輩、そんなこと思ってたんですか」
「だからその分、うちが欠けてた分を補完してた。でも、滝サンはそれでええねん。この世界には完璧な顧問なんておらんし、完璧な人間もおらんのよ」
あすかの声は、ひどく冷静だった。黒曜石を思わせるつるりとした瞳は、高校生のころとなんら変化していない。滝昇という教師に対する、客観的な分析。だからこそ、久美子はその指摘を呑み込めた。
あすかの長い指先が、カップの縁を軽く弾く。
「じゃあなんで滝サンがみんなを全国まで導けたかって言ったら、それはあの人が努力してるからでしょ。部員たちの運命を握ってるから、だから滝サンは毎日一生懸命、部活のために努力してくれてるんちゃうの」

この作品において、滝先生はあまり表に現れない。彼はさまざまに、音楽家としての過去の栄光を示唆されながら、なぜ今、こうやって、田舎の高校の吹奏楽部の顧問なんかをやっているのかについて 、深く本人から語られることはない。しかし、他方において、その噂において、私たちは彼の過去の多くのことを知っている。
なぜ、久美子のソリパートについての「苦悩」が起きたのか? それは、一言で言えば、なぜ関西大会で、ソリを久美子でなく黒江にしたのかの

  • 理由

を彼の言葉で、生徒たちに説明されないからではないか? つまり、余計な懊悩を生徒たち自身に「考えさせる」、「強いる」形になっていることが、最悪と言わざるをえない。
滝先生がまず考えるべきは、黒江がまったく、ソリパートをやることに野望がない、ということだったはずなのだ。つまり、そういう人間を、ソリパートに選ぶ、ということが何を意味しているのかを、滝先生は考えられていない。彼は本気で

  • オーディションの「点数」で選べばいい

と考えている、典型的な「点数主義者」だったわけだw
そして、それに対する、あすか先輩の痛烈な

  • 軽蔑

が語られると同時に、そもそもそこに、あすか先輩の世代の北宇治と今の北宇治との「差異」が強調される。
滝先生はたんに、「音楽バカ」である。音楽の才能で、多くの賞賛を受けたかもしれないが、そのことと、生徒への

  • 教育

は全然別の話なのだ。あすか先輩世代と、久美子世代の差はここにある。久美子世代は、1年時から彼のはなばなしい「活躍」を見てきただけに、彼への

を最後まで止めることができなくなっていた。その相対化を示唆したのが、久美子にとっての「なんだか分からない存在」としての、あすか先輩の重要性だった、と言うことができるだろう。
さて。このように考えたとき、久美子の、彼女が中学のときに感じてきた「問題」、つまり

  • 久美子問題

は、この作品において、解決されたのだろうか(つまり、このフラグは降りたのだろうか)?
滝先生が3年生編で示したのは、

ではなく、

  • 全体における最適化

であった。つまり、全体として、全国大会に行ける「確率」を上げることが第一優先とされていた。しかし、その結果、「優秀」な人が必ずしもA代表に選ばれない、というパラドックスが生まれてしまっていた。しかし、滝先生はそれを、個人的に聞かれればそう答えてはいたが、必ずしも、全部員を前にした場で説明されることはなかった。つまり、彼は自分が言ったことに反した行動をとっていた。そしてそれを、部員たちも十分に分かっていた。
私には黒江のソリパートへの「無関心」は、中学の頃の、久美子の

  • 再来

のように思われる。ようするに、久美子は中学の頃の「自分自身」に、黒江という姿をした存在によって、直面させられていた。
それに対して、久美子はなんらかの「決着」をつけられたのだろうか?
久美子の総括は、これを「黒江問題」と考えるのではなく、「滝問題」として考えることによって、言わばその問題は

  • 継続

したわけである。

「黄前さんは、どういう大人になりたいですか?」
「私は......」
口が勝手に動く。脳が考えをまとめる前に、答えは自然と声に出ていた。
「私は、先生みたいな人になりたいです」
たどり着いた結論に、久美子は自分でも驚いた。だが、その答えはすんなりと久美子の心に馴染んでいた。不透明な未来予想図にはまる、最後のピース。探していたものは、きっと初めから目の前にあった。
「先生が来て、吹奏楽部は変わって。いろんな人が変わっていきました。私も、そんなふうになりたい。先生みたいに、教師になりたい」
こちらを見る麗奈の目が、丸く見開かれている。龍聖の演奏が映ったままの画面を閉じ、滝はにこやかに微笑んだ。
「もし黄前さんが先生になったら、同じ教師としてコンクールで会う日が来るかもしれないですね」

ここで、「先生みたいになりたい」と言っていることは、半分は本気で、半分はアイロニーである。上記の文脈から分かるように、黄前は滝先生に

  • 批判的

であり、彼の「欠点」を分かった上で、それでも、「あがき」、なんとか事態を改善しようと、もがき続けている彼を

  • 尊敬する

と言っているのだ。つまり、ここでの黄前は、滝先生を

  • 自分と同じ立場にある、同じように、同じような場面でどうするべきか悩んでいる「同士」

として扱っていることに特徴がある。生きることは、たんに、相手を「偶像崇拝」することではない。そして、生きることは、常に、答えがある問題を誰よりも早く解くことを競うことでもない。生きることは常に、この、答えのない問題に、(年齢を問わず)多くの「同士」と、共に悩み、立ち向かっていくこと、そのものなのだ、と言うことができるだろう...。