カンタン・メイヤスー『有限性の後で』をどう読めばいいのか?

(以下の引用は全て

カンタン・メイヤスー『有限性の後で』
有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

からのもの。)
カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』については、以前にも、このブログでとりあげたわけであるが、そのときは、別に、その本の議論をなぞる、といったような検討はしなかった。
そこで、あえてここで、それをやってみようと思うわけであるが、まあ、それがうまくできているのかは、また別の話なのであろう。
まず、メイヤスーは「相関主義」を、基本的には、カントの観念論と同値のものとして定義する。

超越論的転回は、独断的形而上学素朴実在論を失効させるだけでなく(この点では、バークリの主観的観念論すでにその責務を果たしている)、独断論的文脈の外部にある対象性を再定義することにとりわけその本質がある。実際、カント的枠組みのなかでは、言明と対象の一致は、「それ自体」として想定される対象と表象との「一致」ないし「類似」としてはもはや定義されることはない、なぜならそのような「それ自体」は到達不可能だからだ。

そうすると、素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことが可能になる。

つまり、メイヤスーはこれ以降で、カントの観念論に反対していくのであるから、彼の立場は

ということになる。
ただし大事なポイントは、メイヤスーの仮想敵は一見するとカントであるが、カントというよりカント以降の一切の主観的形而上学なのであって、カント以降にさまざまに過激化していった、ポストモダンや文化相対主義を「含んだ」それら全てを、等し並に「自分の敵」と定義して戦っているわけである。
次に、メイヤスーは「祖先以前的」という概念を、放射線炭素測定法を代表的な例として、以下のような議論を行う。

私たちには、人間以外のところに与えられる相関性のことはわからない。私たち自身から抜け出して、そうした相関性の受肉が真なるものでありうるかどうかを明らかにすることはできない。したがって、祖先以前的な《目撃者》の存在は、厳密な相関主義の観点からすれば違法なのである。

最初に、祖先以前的言明がもつ意味は、デカルト主義のような独断的哲学に対しては問題を提起しないということを確認しておこう。

ようするに、メイヤスーはカントの超越論的観念論は、放射線炭素測定法が示している科学的な真実をとらえられないが、デカルト主義は、それが可能だ、と言っているようなのだ。
ここで意味が分からないのは、前者に対してだ。そもそも、カントにおける観念論は、私たちは現象しか経験できず、物自体を認識できない、という主張だ。ようするに、カントは物自体があるということは認めているわけで、あくまでそれと現象は違うと言っているにすぎない。カントの言う「科学」は、現象の方の解釈に関係して常に行われる。その意味するところは、デカルトのコギトエルゴスムから一貫する。つまり、デカルトもカントも、コギトエルゴスムにおいては

  • 認識において、現実のそれと夢のそれを区別していない

ということなのだ。デカルトは、たとえ夢であっても、この「考えている」その行為が行われていることは間違いない、という延長で、少くとも「それ」だけは「ある」と言うことができる、という構造になっているわけであるが、その場合に、その考えている「それ」が、夢かそうでないかは問われていないわけである。
デカルトにおいて、この議論が、たとえ夢であったとしても成立している、ということの意味は、カントにおいてもそうだ、ということになる。カントにおける観念論とはそういうことで、いずれにしろ、この思考している「それ」だけが問われている。
ようするに、カントの言いたいのは、人間という観測マシーンが、その他の観測マシーンと比べて、特権的な特別さがある、という考えを放棄したのだ。観測という行為は、絶対的に観測対象と観測マシーンの相互作用によって成立する。その場合に、人間による、人間が日常的に行っている、この観測は、それ以外のさまざまなマシーンが行っている観測に対して、なにか特別な優先すべき何かがあるのか、という問いに対して、なにもない、という解釈なのだ。
観測マシーンそれぞれは、その観測マシーンの特性によって観測をするだけであって、絶対的にその観測マシーンの特性に依存する。そうであるにも関わらず、その観測結果を「物自体」と呼んでも(それは人間を特権化することにしかならないわけで)しょうがないわけである。
科学がある法則を主張するとき、その事象は人間の知覚器官によって知覚される。このとき、大事なことは、「それ」は

  • それ自体

ではない。あくまで「情報」にすぎない。観測という行為は、あくまで

といったもので、あるモデルにもとづいて、情報を分かりやすく加工したものなのだ。だから、私たちは、自然界で生きてくのに大事なことに対しては、強調して情報としてアラートされるし、それ以外の生きていくのにどうでもいい情報は、さっさと捨てて忘れさられていく。そもそも対象は

  • それ自体

じゃない。リチャード・ローティはこれを説明するのに「鏡」の比喩をもちいたが、現象の認識は、まったくの

  • 鏡による写し

のような、「まったく同じ」ものを「心の中」にコピーとして作り上げるようなことではなく、ある、私たちが生きるのに必須な何かだけが、強調して、改竄されて受けとる何かでしかないわけで、そもそもの

  • 物自体

の「観測マシーン」という概念自体が意味不明の、曖昧な議論なのだ(おそらく、デカルト主義者なら、神ならその観測を行なえる、と言うのだろうがw、なんで、そんな議論につきあわなければならないんですかねw)。
それに対して、メイヤスーの言っている「相関主義」はすべての

といったくらいの意味しかない。そして、上記の引用にあるように、奇妙なレトリックが使われている。メイヤスーが相関主義がダメと言うとき、上記にあるように、

  • はるか太古の事象について語るときは、それと同時代の人間との「相関関係」になければならない

という謎の定理だ。つまり、突然

  • 相関

が、違う意味で使われ始めているのだ。ある対象について考えるということは、その対象と同時代に生きている存在の観測マシーンとの相互作用が「なければならない」とは、一体、どこから、こんなキテレツな仮定が挿入されたのだろう?
そもそも、「過去」とは、

  • 科学によって解釈される時間の<仮説>

なわけであろう。つまり、そもそも放射性炭素測定法は科学の仮説だ。つまり、科学の内部の

  • モデル

に依存してしか意味をもたないわけで、それに対して、「カントの超越論的観念論では解釈できない」という主張が何を言っているのかが、さっぱり分からないわけである。
おそらく、メイヤスーはこう言いたいわけである。

  • もしも人間がいなければ、相関の一方がいないのだから「世界すら存在しない」と。

これは、バークリ以降、主観主義的形而上学がバカにされるときに決まって使われてきたレトリックなわけであろう。私が分からないのは、そういう意味では、こんな使い古されたレトリックを、なぜ、今、メイヤスーをやたら礼賛している、翻訳者の千葉雅也さんなどは、今さらのようにやたらと

  • 感心

しているのかが分からないのだ。よく考えてみてほしい。なぜメイヤスーはカントではなく、カント以降と言ったのか。それは、そもそも上記の批判は少なくともカントには適合しないからだ。なぜなら、カントは「物自体」の存在については認めているから。
分かるだろうか? 明らかにメイヤスーはここで、論理的な混乱を意図的に挿入している。人間がいなければ、世界すら存在しない、というのは通俗的なバークリの主観的観念論や、現代のポストモダンや文化相対主義には適合しても、カントには相性がよくない。実際、カントは自身で、自らの批判哲学は、経験的実在論を内包しうるものであることを主張しているくらいなのだから、このメイヤスーの批判は、そもそも最初から、(少なくともカントに対しては)成功していないのだ。
さて。
言うまでもないが、この本における相関主義とか祖先以前的についての議論は、第一章での議論なわけで、第二章以降もなにか議論がされている。それは何かと言うと、言うまでもなく、この相関主義を乗り越えて、上記にあるように、メイヤスーの立場である

を正当化するための論争に挑んでいるわけであるが、果して、どんな筋道でそれを行っているのかを、(上記から分かるように、すでにメイヤスーの言っていることが、私には強引なレトリックにしか見えていないわけでw もう、面倒くさくてやめたいところなのだが、)ネット上のブログを含めて、世の中の書評で、この辺りについて、丁寧に書いているものに、おめにかかったことがないので、ひとまず、やってみようと思う。
まず、上記から分かるように、メイヤスーはデカルト主義者であり、素朴実在論者であり、仮想敵はカントなのだが、では、どういう意味で、メイヤスーは自分をデカルト主義者だと言っているのかを理解するために、メイヤスーが自ら、デカルトの『省察』を整理することで、デカルトの主張をまとめているところが以下になる。

デカルトは、延長実体の絶対的な存在という主張を、すなわち、物体に関する数学的言説の非−相関的な射程についての主張をいかに正当化しているのか。デカルトの推論は、大まかに言って、次のように再構築されうるものだろう。

  • 1 私は、至高にして完全なる神の必然的存在を証明できる。

周知の通り『省察』で展開された神の存在証明の三つのうちひとつは、カント以来、存在論的証明(ないし議論)の名で知られているものだ。その原理は、神の存在を、神は無限に完全であるという神の定義から演繹することである----つまり、神がもし完全であるならば、存在することは完全性の一種なので、神は存在しないわけにはいかない。デカルトは神を、それを考えるために私が存在していようがいまいが関係なく、全き必然性で存在するものとして考えるがゆえに、デカルトは私に絶対的実在へのアクセスが可能となるよう保証してくれる。絶対的実在へのアクセス、それは、私の思考に相関することなき《大いなる外部》へのアクセスである。

  • 2 この完全なる神は、私が正しく知性を使うならば、つまり、明晰にして判明な観念で考えるならば、私を欺くことはできないだろう。
  • 3 私の外部には、私がそれに三次元の延長性のみを賦与するならば、それについて判明な観念を得るところの物体が、存在していると思われる。これは、実際に私の外部に存在していなければならない、なぜならそうでなければ神は誠実でないことになり、それは神の本性に反するからだ。

このようなデカルトの手続きの本性を、内容から独立させて考えるならば、証明は次のように成り立っていることがわかる。1 ある絶対者の存在、すなわち、完全ある神を確立する(これを「第一絶対者」と呼ぶことにしよう)。2 そこから、完全なる神は欺きえないということを援用して、数学的なものの絶対的な射程を派生させる(これを「派生的絶対者」とよぶことにしよう)。ここでの「絶対的な射程」というのは、物体において数学的に思考可能なもの(算術ないし幾何学によって)は、絶対的に私の外部に存在しうるということである。ところで、このようにデカルトの証明の形式面だけを考えるのであれば、これ以外に数学的言説を絶対化しうる方途があるとは思われない----すなわち、私たちは、それ自体ではじかに数学的ではない絶対者(延長する物体の存在を保証する誠実な神)へアクセスせねばならないのである。したがって私たちは、新たに私たちで、そうした論の形式に即した別の論証を作ることができなければならない。しかし、その内容を明らかにするには、今度は、デカルトの証明の内容がどういう点で相関主義による批判に耐えられないものであるのかを説明するところから始めなければならない。

よく知られているように、カントは一方でデカルトのコギトエルゴスムを超越論的仮象として全面的に批判哲学に取り入れておきながら、他方でデカルトの神の存在証明を認めていない。それに対して、メイヤスーはカントのこの批判は

  • 正しい

と言っているわけです。そう言いながら、たとえそうであっても、彼は自らをデカルト主義者であると主張するわけであるが、その方法に対する、基本的な方法が、上記の引用では示唆されている。
まあ、一言で言えば、神の存在証明なしで、

  • 別の絶対者

を、その神に代替すればいい、というアイデアであることが分かる。まあ、ぶっちゃけて言えば、なんだっていいわけである。相関主義が、一切の絶対者を拒否しているのであれば、なんらかの

  • 絶対的なもの

を一つであっても見つけて、議論のテーブルに置くことさえできれば、メイヤスーの(本人がそう思っている)勝ちだと言いたいわけである。
さて。
それを実現するにおいて、メイヤスーが依拠する、基本的なアイデアはどこにあるのか?

こうした問題の位置づけと、その解消のための根本的な条件は、実のところ唯一私たちに遂行可能と思われる道をおのずから指し示している。強いモデルに対抗するためには、カントの超越論的哲学に対する形而上学の第一の反撃を範例にしなければならない----すなわち、私たちもまた、相関主義があらゆる絶対論的思考を失効させるために用いている原理それ自体を、絶対化しなければならない。それは、諸々の主観主義的形而上学が行ったことに他ならない。主観主義的形而上学は、相関性それ自体、つまり経験的-批判的な脱-絶対化の手段を、新しいタイプの絶対化のモデルとしたのであった。

まあ、こういったレトリックはよく行われるレトリックだと言えるだろう。主観的観念論は、この世に絶対的なものはない、すべて相対的なものだ、と言うとき、しかし

  • そう言っている、主観的観念論<そのもの>は絶対的なんじゃねw

という反論なわけだ。

こうした反撃の第一波は、しかしながら、相関主義の第二の原理によって座礁する。第二の原理とは、相関項の本質的な事実性であり----これが相関主義において最も深い決定であることはすでに明らかである----、それが、観念論的な独断論および実在論的な独断論をどちらも失効させるのだ。しかしそれゆえに、私たちがとるべき道筋はもうわかっている。もう絶対者が今なお、相関的循環によって妨げられることなく思考可能であるとすれば、そうした絶対者は、ただ、相関主義の強いモデルの第二の決定それ自体を絶対化することで得られるものでしかない----すなわち事実性の絶対化である。言い換えれば、もう、事実性の下に隠されたひとつの存在論的真理を発見できるならば、そしてもし、事実による脱-絶対化に力を与えているその源泉そのものが、正反対に、ある絶対的存在へのアクセスであるということを把握できるならば、私たちは、いかなる相関主義的懐疑論でも達しえない真理へのアクセスを開いたことになるだろう。

ようするに、あとは、なんらかの「事実性の下に隠された存在論的真実」が示されればいい、というのが、メイヤスーの主張だというわけであるのだが、そこで例に挙げられるのが

  • 宇宙サイコロ

である。

というのも、まさしく、確率を私たちの経験の限界の外部へと不当に適用することによって、カントは----『第一批判』で何度も繰り返されているが----法則の偶然性という仮説から、それが頻繁に変更される必然性を主張する。たとえば次の一節は、可能的な偶然性に関する推論から、その作用の頻度の必然性への移行をとりわけ綿密に示している。「仮に経験的な概念による総合の統一[つまり、とりわけ現象への因果関係の適用:筆者注]がまったくもって偶然的であるならば、そしてもし仮に、それが統一の超越論的な原理に基礎づけをもたないものであるならば、現象の塊が私の魂を満たしても、いかなる普遍的で必然的な法則によるつながりが欠けることになるので、認識から対象へのあらゆる関係は消失するであろう。その結果、それは思考における空虚な直観にはなるだろうが、決して認識なることはなく、認識から対象への関係も、私たちにとって、あたかもそんなものは存在しないというふうになってしまうであろう」。カントはこのように、現象界の法則の実際の偶然性から、きわめて無秩序な現実の変化を結論づける----それはきわめて無秩序なので、必然的に、認識の、つまりは意識の可能性さえをも破壊に至るほどの現実の変化である。だが、カントはどのようにして、偶然的であると想定される法則が変化する実際の頻度を決定できているのだろうか。カントは、この頻度が常規を逸して重大なものであるから、それが科学の可能性やさらには意識の可能性さえをも破壊しかねないということを、どのように知るに至ったのか。いかなる権利において、偶然的な法則が稀に変化するという可能性----本当のところきわめて稀なので、このタイプの変化を認める機会は今まで誰いもなかった----をカントはアプリオリに排除しているのか。それを可能にしているのは、カントが、確率の計算を私たちの世界のなかの所与の現象にではなく世界総体に対して適用することから来る権利である----つまりカントは、可能的なもののアプリオリな全体化をしており、そのことが以上を可能にしている。しかし私たちはカントール以来、そうした全体化には、論理的または数学的ないかなる必然性も認められるものではない、それはまさしくいかなるアプリオリな必然性もないと知っているのである。

ようするに、メイヤスーは何を言っているのか? この「宇宙サイコロ」は、カントールの超限数の定義が分かりやすいように

  • 全体を定義できない(どんな集合も、それより真に大きい濃度の集合がある)

ことから、

  • その確率空間を定義できない

のだから、そういったものに対して、カントが「確率」を議論しているのは

  • 不当

だと、だから、

  • カントの議論は意味がない

というところから、上記の条件を満たしたことによって、証明された、というわけであるw
まず、ここで

  • 超限数の全体が「集合」にならない(公理的集合論の用語を使えば「クラス」である)

が使われているが(このカントールの定理で使われる対角線論法こそ、ゲーデル不完全性定理の中心的なアイデアであるわけだから、相変わらず、現代思想的なアイデアの議論の延長にあるものであることが分かるであろう)、そもそも、確率論においては、そんな大きい集合の話をする必要はない。というのは、確率論(つまり、測度論)は

  • 完全加法族
  • 完全加法性

によって、制限されているからだ。特に、この後半を満たす条件を考えるなら、たとえ

  • 非可算無限な完全加法族
  • 非可算無限な完全加法性

を考えたとしても、

  • 可算個を除いて、全ての確率がゼロ

でないと、「完全加法性」を満たさないんだよね(だって、しょせん、確率はゼロから1の実数の間しか値をとれませんからね)。
そういう意味では、メイヤスーの議論はオーバースペックなんだ。「確率空間が定義できない」ということが言いたいなら、超限数全体のような、あまりにも極端に大きいものをもちだす必要はない。
しかし、だからといって、メイヤスーの議論がカントに比べて優れているかというなら、まったく、そんなことないよね。
だって、いずれにしろ

  • 非常に確率は低い

ことについては間違いないわけだから。メイヤスーは「確率空間を定義できない」ということが、その確率を考えることには意味がない、と主張したかったんだろうけど、そもそも、確率空間は、議論する対象に合わせて選択されるものなんだよね。だから、むしろ、問題は

  • メイヤスーは適切な確率空間を選んでいない

ということが意味されているだけで、カントの主張は間違っていないんだ。
こういった間違いは、確率論を学んだ最初の頃の人には、よく起きがちなことなわけで、なんとなく、レトリックとしては説得されがちなんだよね。
そもそもさ。カントはなんで、自分の哲学を「批判哲学」と言って、一般的な独断論形而上学と区別したんだろうね。

何がカントのプロジェクト----超越論的観念論----をヘーゲルのプロジェクト----思弁的観念論----から根底的に区別しているのか。最も決定的な違いは次のように言えるだろう。カントの主張では、私たちは認識のアプリオリな諸形式(感性の時間・空間形式、悟性の一二のカテゴリー)を記述できるだけである。が、他方でヘーゲルの主張では、認識のアプリオリな諸形式は演繹できる。したがってカントは、ヘーゲルとは反対に、思考の諸形式を何らかの原理やシステム----思考の諸形式に絶対的必然性を与えるものとしての----から派生されることはできないと考えるのである。

ようするに、さ。カントは、プラトンアリストテレスから続く

をやってないんだ。カントが行っているのは

  • なぜ科学は成立しているのか?

という問題に対しての、人間の諸条件を、つまり、人間が科学を行っている、その日常を成立させている、その

  • よって立っている基盤

を徹底的に考察しているだけなんだよね。だから、そもそも、なんらかの「体系性」が目指されていない。それはカントがよく言うように

  • 理性の越権行為

なわけで、人間はなんでも知れるわけじゃないんだよ。人間が知れるのは、人間が知れることまでで、でも、科学はここまで成功している、っていうことで、その

  • 境界

を考察した、っていうことなんだよね。
どうだろう? なぜ、カント研究者を含めて、メイヤスーをまったく相手にしていない理由が分かっただろうか? メイヤスーは自らをデカルト主義者だと言って、カントを批判するが、そのレトリックは、こうやって見てくると、完全に、古典的な、主観的形而上学への素朴実在論からの論駁の反復のようにしか思えない。そして、この「勘違い」は、どちらかというと

  • SFマニア

のような人たちから、反復して繰り返されているように思われる(メイヤスーも、どこかで、SF論を書いていたと思うが)。おそらく、SF関連での議論の流行の中に、こういった

  • 勘違い

を起こさせやすいレトリックが、たくさん残存していて、それにひきづられて、こういったゴミ議論が大量生産されていく、といった特徴があるのかもしれない...。