VRと伝統的・精神的な意匠

柄谷行人の最新刊である、

世界史の実験 (岩波新書)

においては、柳田国男が再検討されているわけであるが、柳田の『先祖の話』を再検討することで、

  • 死者を含んだ、共同体の倫理

について語られていることが特徴的だ。それは、アウグスティヌスの『神の国』とも比較されているように、なぜ「死者」についての「倫理」を考えなければならないのか、に関係している。
私たちは生きている。そんな生きている人間にとって、死者は関係ないんじゃないのか、と思うかもしれない。もう彼らは、ここにはいないのだから。
しかし、そうだろうか? カンタン・メイヤスーはそのことを、「亡霊のジレンマ」と呼ぶことで、問題提起している。

一方の、宗教的な弁論はこうだ。「私は自分自身の死を受け入れることを望む(esperer)ことはできるが、非業の死者たちの死を受け入れることを望むことはできない。私に将来訪れる終わりを前にした恐怖ではなく、彼らの過ぎ去った、取り返しようがない過去の死を前にした恐怖、それこそが私に神の存在を信じるよう強いるのだ。たしかに、たまたま私の死滅が悲惨なものであることになっている場合には、私は自分自身に対して、亡霊たちに望むことを望みながら死ぬことだろう。だがそれは、私自身待機中の一亡霊でしかないからである。私は、私自身や他の人々についてサドカイ派であうこともできるが、亡霊たちについてはつねにパリサイ派でありたい。あるいはこうも言える。私は、自分自身については最悪、無神論者であり得る。つまい自分の不死を信じずにいることもできる。だが、亡霊たちに対して無神論者であることは、決して受け入れられない。なぜなら、過去の無数の亡霊に対してはいかなる正義も不可能であるという考えは、私を根底から覆し、その結果、私はもはや生者に身をささげることがなくなってしまうから。またたしかに、助けを必要としているのは、生者であって死者ではない。だが、生者への助けというのは、結局のところ、死者への正義を望むことによって維持されているものではないだろうか。無神論者は、まさしくこれを否定することができるだろう。だが私のほうはというと、それを捨て去るのならもはや生きることができなくなってしまう。私は死者に対しても内かを望みたい。さもなくば生は空虚である。その何かとは、来世、すなわちいつかもう一度生きる----彼らのあの死とは別のものを生きる----機会のことだ」。
(カンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」)
亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

以上から、辿るべき道は示された。すなわち、ジレンマを解消することは、死者の復活可能性----解消のための宗教的条件----と、神が現実存在しないこと----解消のための無神論的条件----とを結びつける言明を思考可能なものとすることに帰着する。
(カンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」)
亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

私たちは、常に、「生き甲斐」や「生きる目的」を探して生きている。そして、この究極的な思考の果てに辿り着く場所は、つまりは

  • 自分が死してなお、求めずにはいられない<正義>

のことだと分かる。私たちはいずれ死ぬ。そして、この大地を離れなければならなくなる。しかし、たとえそうなったとしても、そうだったとしても、

  • 求めずにはいられない<正義>

というものがあるのではないか? つまり、たとえ自らが「死んだ後」であっても、なにかを、なにかの<正義>を求めずにはいられないのではないか?
私たちは最終的には、ここに辿り着く。京アニのテロで、多くの死者がでたことに対し、彼らはさぞ無念であったであろう。まだまだ、ここでなにかをなしとげようと考えていたであろう。しかし、たとえそれが理不尽であったとしても、こうやって、死を迎えた彼らに対して、私たちはどうして、彼らのその志を無碍にできるだろう。彼らの望んでいたこと、彼らが実現したいと思っていたこと、彼らが夢見ていたことが、

  • どうして実現されずに済まされていいなんてことがあるだろうか

と考えずにはいられないはずなのである。
こういった意味で、私たちは、どうしても生者と死者の「ゆるやかな」倫理的な関係を考えずにはいられない。しかしそれは、どういった形において、未来の人間社会は実現していくことになるだろうか?
ところで、そもそも、カンタン・メイヤスーの前に、すでに「死者の復活」について、たんなる宗教的な文脈から離れた形で考察した人がいる。

フョードロフの黙示録的ヴィジョン、それはすべての人間の不死化、そしてかつて死んでいったすべての先祖の(物理的)復活(!)である。ナノテクノロジー/バイオテクノロジーと全人民の労働を結集させることで、死んだ者たちの遺骸の分散した粒子を集め、それを組み合わせて肉体を復元させるという壮大なプロジェクト。進化の果てに、人類は文字通り「神」にも似た存在、「神人」になる。
(木澤佐憲志『ニック・ランドと新反動主義』)
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

しかし、なぜ「死者」が復活しなければならないのかは、まったく、カンタン・メイヤスーと同じ考察を辿っているわけで、つまりは、彼らが「理不尽な死」をとげたことに、なぜ私たちは、それを受け入れなければならないのか、あまりにも納得できないことを、なぜそうであるままに受け入れなければならないのか、といった「反抗」の精神があるわけであろう。
ところで、映画「マトリックス」がボードリヤールに大きく影響された作品であったことは、よく知られている。

ボードリヤールが提示しているのは、単なる現実と人工(シミュラークル)からなる二項対立の世界モデルではない。記号や広告や商品など、後期資本主義における情報のオーバーフローによって現実は置き換えられた。現実の体験とシミュレーションを区別すること自体が不可能であり、また無意味であるような認識論的地平、すなわち現実性の完全な喪失をボードリヤールは論じているのである。
(木澤佐憲志『ニック・ランドと新反動主義』)
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

作中でモーフィアスはネオに青い錠剤と赤い錠剤、すなわちブルーピルとレッドピルを手渡す。ブルーピルを飲めば、何も知ることもなく、その代わりにこれまでどおり平穏な生活を送ることができる。だがレッドピルを飲めば、もう後戻りはできない。この偽りの世界が見せる「夢」から目覚め、真実の世界----現実界----にアクセスしなければならない。
アンドリュー・ゴードンは、以上のような点から『マトリックス』はボードリヤールの理論に忠実ではなく、『シミュラークルとシミュレーション』の単純化ないしは空想化された観念を提示していると結論付けている。
(木澤佐憲志『ニック・ランドと新反動主義』)
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

しかし、そもそもボードリヤールの言っていることは、カントの超越論的観念論が主張していること、そのもののように思われる。カントは人間は現象を経験できるだけで、物自体を認識することはできないと言うとき、その意味は、デカルトのコギトエルゴスムがそうであったように、私たちは夢とそうでないものを区別できない、というところに本質があったはずなのだ。
そういった観点で言えば、映画「マトリックス」が描いた、ブルーピルとレッドピルは、それぞれ、カント的世界とデカルト的世界に対応している、と考えることができるだろう。言わば、前者は

  • 神を想定できない世界

であり、後者は

  • 神を想定できる世界

のことを言っている。デカルト的世界は、神の視点から描かれた世界であり、そこには

  • 真実

がある。ところが、カントの超越論的観念論においては、そういった神の視線の導入は

  • 理性の越権行為

として禁じられることになる。
ところで、アニメ「ガルパン」における戦車や、アニメ「刀使ノ巫女」における刀(かたな)が、

  • 対戦相手を傷つけない

という<設定>は、こういった子ども向けアニメを嘲笑する大人たちによって馬鹿にされている。彼らは言う。それは

  • リアル

じゃない、と。しかし、そう彼らが言うときのリアルとは、例えばハイデガーの言うリアルとも似た、なんらかの「実感主義」のような(エリート主義的な)特権主義のことを指しているのであって、なぜそういった彼らの「エリート主義」に私たちがコミットメントしなければならないのかが、さっぱり分からないわけであろう。
なんで、私たちは東大出身の偉い学者がそう言ったからといって、へいこらとそれに平伏して、おっしゃる通りでございます、と忍従しなければならないのか。自分が違うと思えば、違うんじゃないか、と言えばいい。そんな権威主義者に操られるままに生きる必要なんかない。
戦車や刀は、確かに、過去の意匠である。現代兵器においては、飛行機や拳銃の登場により、戦車や刀はオールドファッションドな、過去の遺物となってしまっている。
しかし、である。
それらは、間違いなく、ある時代において、重要な

  • 精神的

な何かを体現していた。だとするなら、そう簡単にこういったものを無碍にすることはできないのではないか。これらは何かを示唆している、私たちにおいて重要な何かを、何かの意味を包含して、今も私たちになにかを突きつけている。
つまり、このように考えればいい。ガルパン刀使ノ巫女における、戦車や刀が、「相手を傷つけない」ことの意味は、これが

  • VR(ヴァーチャル・リアリティ)

によって見せられている何かだから、なのだと。はるか未来の人間社会においては、もう、そこには戦争はなくなり、人々は武器を捨て、平和に暮らしている。しかし、たとえそういった時代が到来したとしても、そういった過去の

  • 意匠

は、伝統的な精神的なものとして、人間は決して手放せないのだ。これらは、一つの「eスポーツ」のような形で、私たちのVRにプレインストールされ、私たちはそこに、なにかの「精神」を見出す。
そして、同じことが<死者>にも言える。彼らがたんにそうやって「理不尽な」ままに死してしまうことを

  • (生者である)私たちが<許せない>と考える

ならば、それは

  • 実現

されなければならない。つまり、彼らは「生きる」。まさに、VRとして...。