アニメ「まちカドまぞく」の問題

アニメ「まちカドまぞく」が評判だ。漫画雑誌「きらら」連載の、いつもの感じの4コマのギャク漫画が原作だが、まず作品のおおまかなあらすじから確認しておきたい。
主人公の優子は、ある日、目が覚めたら、頭に角が生えていて、おまけにシッポまで生えていて、つまりは「魔族」として覚醒した、という(母親に聞くと、代々、魔族の家系だったと言う)。母親は、優子に、この町の魔法少女と戦うことを彼女に使命として伝える。
そのまま学校に行った彼女は、クラスの友達に自分が魔法少女を探していると伝えると、別のクラスに、千代田桃という魔法少女がいることを教えてもらう。
ここから、優子と桃の、なんとも奇妙な関係が続くのだが、基本的なコンセプトは

  • 笑わない桃

の謎に、優子が挑む、というところにあるのだろう。そして、この問題は、原作では第3巻で一応の完結を見る。なぜ桃は笑わないのか。それは、桃には幼ない頃に、血は繋がっていないが、千代田桜という姉がいた。しかし、なぜか彼女はある時を境にいなくなった。そのことと深く関係していることに気付く。
優子はその桃の姉の居場所を探すことになるのだが、次第にそれが、優子自身の幼少期に深く関わっていたことが分かってくる。幼い頃、優子は体が弱く、いつも入院していた。どうも、千代田桜は、その体の弱い優子を助けるために、優子の中に封印されることを選んだようなのだ(もともと、魔法少女という超常現象的な存在なので、こういったことはこの作品では何度も起こる)。
姉の桜の居場所が分かった桃は、優子から自分のために姉と再開できないことで謝罪をされるが、桃は少なくとも姉の居場所が分かったので、優子が強くなって、桜が彼女の中で封印されている必要がなくなったら再開できるのだから、と優子を励ます場面で、最初の桃の笑顔が、この漫画で描かれる。
とまあ、基本的な「あらすじ」をまとめるとこんな感じになるのだが、ここでの一つの問題は、こういった「異能」の存在が、まさに

  • 優しい世界

の重要なパートとして描かれている、という部分だろう。優子は子どもの頃、体が弱く、学校に通えなかった。また、彼女は母親と妹と、とても貧しい生活をしている。そうでありながら、健気に立派に育った優子の回りには、まさに

  • 優しい世界

が展開する。例えば、少し似たような作品を例として挙げるなら、漫画「ガヴリエール・ドロップアウト」や漫画「邪神ちゃんドロップキック」を考えられるだろう。こういった作品の主人公たちは

  • 天使

であったり、

  • 悪魔

だったりするわけだが、驚くべきほどに、彼女たちは「人間くさく優しい」わけである。というか、そもそもこういった、悪魔や天使などの「異能」の存在とは、そういった人間社会の不条理が要請する形で求められた、なんらかの

  • 願い

に関係して描かれてきたのではないか。体の弱い子どもは死んでしまう。しかし、そんなことがあっては、なんとも不条理なのではないか。あってはならない。だからこそ、こういった異能の存在は、それを救済する力をもったものとして、ここに現れることを要求される。
そのことは、柄谷行人の最近の作品での、柳田国男の『先祖の話』や、アウグスティヌスの『神国』といった、

  • 死者と生者との間の、ふわっとした関係を含んだ<世界観>

に注目する視点とも関係する。
さて、もう一つのこの作品の問題を挙げるとするなら、これが「ギャグ・マンガ」として描かれている、という側面を無視できない。
4コマ漫画は、基本的に、起承転結で描かれるわけだが、重要なのは最後の「結」だ。ここでは、いわば漫才で言うところの

  • ボケに対する「ツッコミ」

が描かれるわけだが、そももこれはなんだろう? 言ってみればそれは、ある「突き離し」がなされるわけである。つまり、そこで「突然」全てが終わるわけで、まさに、しりきれトンボな状態を、あえて現象化させているわけであるが、これはなんなのだろう?
私はこれを、例えば前回注目した「オートポイエーシス」の特徴の一つである

  • 観察者の視点とシステム全体の視点との乖離

に求められるのかもしれない。つまり、4コマ漫画の起承転結の「起承転゙」にあたる、3コマ目までは、基本的には「観察者の視点」の

  • 文脈

で描かれている。しかし、最後の4コマ目は、それが突然

  • システム全体の視点

から、その文脈が「分析」されるわけである。もちろん、この作品の中では、どちらも優子の視点から発言されているわけであるが、4コマ目の優子は、まるで3コマ目までの優子とは別人のような

  • 客観的な視点

で急に、「評価」を始める。つまり、だれでもその文脈の中では、集中して必死にあがいているわけであるが、一度(ひとたび)そこから離れて、その様子を客観的に眺めているなら、けこうそういうものって「おかしな」「笑える」ことをやってたりする、というわけである...。
(まあ、こういった人間の態度を、フロイトは「ヒューモア」と言っていた、というわけ。)