適者生存はトートロジーか?

うーん。
ダニエル・C・デネットの最新作『心の進化を解明する』の翻訳者の、木島泰三さんがツイッターで以下のような

への反論を行っている(まあ、そういった発言をしたのは、けっこう前のようだが)。

5)「生存競争」と「(最)適者生存」をセットで呈示できる点では、(文脈と議論の目的次第では)有用な表現だとすら言えるかもしれない。 「適者生存」がトートロジーでないなら「適者」を(ローカルな)「優者」と言い換えていけない理由はない。そして「適者生存」はトートロジーではないと思う。
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:42

6)だいいち、例えば「適者生存」が「生存者の生存」を意味するなら「適応」と「遺伝的浮動」(いわば「幸運者生存」)の区別は失われる。(さもなければ、遺伝的浮動の余地をいっさい認めない、非現実的な適応主義に帰着する。)
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:44

7)「適者」がその環境の中でどの点で「適者(優者)」なのかの根拠、説明、または理由(デネットの言う浮遊理由)は結果(生存)と切り離して、例えば流体力学ゲーム理論などの助けを借りて定義され得るものだと考えていいはず。
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:45

8)(もちろん研究者の目には何がどう適応なのかわからない場合も多いはずで、その場合「これは生き延びているのだから何か適応があるはずだが、今のところ何のためのどんな適応なのかわからない」みたいなことは多いはずだが、これは概念的に「適者」が「生存者」と「定義」されることを意味しない。)
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:52

9)こうした(流体力学その他の)観点から解明される、その環境での最適な問題解決を果たした、またはそれに近づいた遺伝子をもつ個体は生き残って数を増やす(傾向をもつ)。他方でそれ以外のものは子孫を残さずに消え去る(傾向をもつ)、というのが適者生存=(ローカルな)「優勝劣敗」であって、
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:53

10)この過程の累積によって、ダーウィンはペイリーが神に訴えた現象を自然主義的に説明した。この過程では消えていった個体(の遺伝的デザイン)は、(ローカルな状況下での、ある問題解決に対する成否において)「劣った」ものだし、残ったものは(ローカルな…以下同文)「優れたもの」になる。
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:55

11)例えばイルカの見事な流線型を生み出す過程で生き残った者と滅んだ者の典型例をサンプリングしたら、かなり残酷な「優勝劣敗」の構図が見えるはず。この死に方のパターンは種の絶滅(特に隕石衝突みたいな大量絶滅)とは正反対のパターンで、このパターンこそダーウィンの重要な発見とは言える。
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:57

12)主流派のダーウィン主義は種間の「優勝劣敗」を必ずしも否定はしないものの、その種ごとに環境が突きつける問題に対する別々の解を最適化しているから、ちょうど同じニッチを争っている古い種と新たに分化した種の間でもなければ、優劣はつけられないほうが普通だと考えると思う。
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:57

15)吉川浩満氏の『理不尽な進化』での「適者生存」概念の民間的な普及を鶴見俊輔の「言葉のお守り的用法」の概念で捉える分析は炯眼だと思う一方、返す刀で科学的な適者生存概念はトートロジーだと言いかねない勢いになっていて、
@KijimaTaizo 2018/08/06 12:02

16)それは行き過ぎだと思うし、そこまで言わなくとも民間的な進化論理解(誤解)の分析の部分は十二分に妥当性を持てると思う。(実は先日ご本人にこの件は伝えたところ、それなりに耳を傾けてもらえました。)
@KijimaTaizo 2018/08/06 12:03

まあ、上記で言いたいことは、ようするに

  • 吉川浩満氏の『理不尽な進化』で、「適者生存はトートロジーだ」と書いてあるけど、自分は違うと思う(本人に話したときも、それなりに納得してくれた反応だったと思う)。

といったところだろうか。
少し、時系列は離れるが、さらに以下のようなコメントもある。

「適応主義とは『まずは最適性の仮説から始めよ』という方法上の方針だ」という無難な話と、「適者生存は『生存者の生存』というトートロジーだ」という昔ながらの言いがかりが、「研究プログラムは反証可能でなくともよい」という一般論を媒介に、変な形で接合されて広まっている現状があって、(続
@KijimaTaizo 2019/07/23 07:08

承前)これに関しては吉川本のマイナス効果かなと思う。学生さんの間でも「適者生存はトートロジー」は広まっている模様(授業でも詳しく説明したのに…)。
@KijimaTaizo 2019/07/23 07:10

こちらでは、

といった感じでしょうか。
さて。
では、吉川さんの本では、この辺りを、どのように説明しているのでしょうか? 確認してみましょう。

また本章の関心からより重要と思われるのは、この言葉には学問上の問題があると絶えず指摘されてきたという事実だ。「適者生存」とは結局のところトートロジー(ある事柄を述べるのに同義語を繰り返す技法)ではないかという嫌疑である。先の『岩波生物学辞典』の「適者生存」の項にはこうある。

生存闘争において、環境にもっとも適した(著しく適合した)者が生存の機会を保障されること。H・スペンサー(一八六四)の造語。C・ダーウィンは『種の起源』の第四版以降において、自然淘汰に関し、「適者生存という表現はさらに的確であり、ときには便利でもある」としている。しかしその後、生存者すなわち適者とする同語反復であり循環論法であるとする批判が研究者間でたかまり、今日では歴史的文脈以外ではあまり使われない。(八杉ほか 1996:959-60)

誰が生き残るのか? それは、もっとも適応した者である。では、誰がもっとも適応しているのか? それは、生き残った者である。......これでは論理が循環しているではないか、というわけだ。このような次第で、「適者生存」には、歴史的社会的にも、また学問的にも味噌がついてしまった。こうした厄介事を回避したい専門家は、もはやこのスローガンを使うことはない。彼らはダーウィンへと立ち返り、もっぱら「自然淘汰」の語を用いるのである。
吉川浩満『理不尽な進化』)
理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

こうやってみると、そもそもこの

は、岩波生物学辞典の主張であって、それをまるで吉川さんに「諸悪の根源」があるように語る木島さんもどうなのか、と思うのだが。
まず、ファクトとして、「適者生存」という言葉を使い始めたのがスペンサーで、ダーウィンは最初はその言葉を使っていなかった(スペンサーの影響で、ダーウィン自身も、第四版以降で、付加的に、そういった表現も説明手段で賛同した、といったことのようだが)。
木島さんの言っていることは、いろいろと長々と説明をされているが言いたいことは「適応主義は正しい」ということなんだと思う。少なくとも、それが進化の本質だと言いたいんだと思われるわけだが、それに関連して、例えば、私が上記の木島さんのコメントで気になるのは、

7)「適者」がその環境の中でどの点で「適者(優者)」なのかの根拠、説明、または理由(デネットの言う浮遊理由)は結果(生存)と切り離して、例えば流体力学ゲーム理論などの助けを借りて定義され得るものだと考えていいはず。
@KijimaTaizo 2018/08/06 11:45

といった発言だ。これは、明らかに、心身問題における「フレーム問題」と同型のことを言っているように聞こえる。
吉川さんが問題にしているのは、例えば、隕石衝突のような「偶然」の、進化における「役割」のようなことが言いたいのだと思う。それに対して、木島さんは言ってみれば

的な「物語」によって、自然を説明する方に偏っている。もちろんそれを「適応主義」と言ってきたわけだが、上記にある

は、後から「発見」される構造だ。そして、そういったもののコンピュータにおける「シュミレーション」が、まるで「現実を説明している」かのように思われることを発見する、という構造になっている。しかし、吉川さんが言っているのは、

  • だったら、そういった「流体力学」「ゲーム理論」が、どういった順序で、どういった優先順位で、どういった「体系」によって、進化現象を説明するのか(または、それ以外のどんな「原因」が隠れているのか)?

っていう、「科学の説明体系」の存在の有無(または、その可能性)を問うているわけであろう。

精神の現象学』----ルーマンが「哲学の偉大な小説(ノベル)」とよぶ本----のなかで、ヘーゲルは精神の自己形成(Bildung 大体の意味は「成長」あるいは「成熟」)を思い起こしている。『精神の現象学』は、この意味において、一種の精神の自叙伝的な小説である。この本におけるヘーゲルの主たる仕事は、精神が一生を通じてするあらゆる経験の「必然性」を再構成することである。これは別に、すべてのことがなぜ最初から運命づけられているのか、またそれゆえなぜ単に偶然あるいは可能であるのではなく様相として必然であるのかを説明する、という課題をヘーゲルが追求している、と言っているわけではない。そうではなく、彼は、「必然」という実存的な意味での関連で、精神に対して、精神とともに、精神によって何が起きようとも、その「決定的に重要な意味」を探求しようとしたのである。
(ハンス=ジョージ・メラー『ラディカル・ルーマン』)
ラディカル・ルーマン: 必然性の哲学から偶有性の理論へ

「必然性」がヘーゲルにとって決定的に重要な概念であるとすれば、「偶有性」こそルーマンにとって中核をなす概念である。
(ハンス=ジョージ・メラー『ラディカル・ルーマン』)
ラディカル・ルーマン: 必然性の哲学から偶有性の理論へ

ある現象がある。それを細かく調べていくと、どうも「適応主義」と相性のいいような説明が「発見」される。そこから、

  • 生物の進化は「適応主義」と同値だ

というように、まさに「後から」私たちは発見する(というか、そう言いたくなる)。
しかしそれは、まさに上記のヘーゲルが代表的なように、なんらかの「世界の本質」を説明する根源を探す旅に似ているわけで、こういった「必然」の連鎖に対する懐疑から、現代の社会システム論は始まっているわけであろう。
私が今一歩よく分からないのだが、どう考えても「進化」という言葉は曖昧だ。もうこの言葉をやめて、その現象を

で説明する、というのでは駄目なのだろうか? (例えば、リサーチ・プログラムはポパー反証可能性を満たしていないが、だからといって、それでリサーチ・プログラムが科学ではないとは限らないと言ってみたとする。しかし、では、そう言ったからって、リサーチ・プログラムの長期的な「曖昧さ」が別に、明瞭になるわけではないわけで、本質的な問題はここにあるわけであろう)というか、オートポイエーシス論は、明らかに、進化論の「分析」から始まっている。そして、そういった現象を含んだ

  • 一般的な理論

として提示されている。そして、大きな流れとしては、オートポイエーシス論は、そのオートポイエーシス・システムの「原因」の十全な説明をあきらめている(というか、その説明が「完成」してしまったら、それはもはや、オートポイエーシス・システムじゃないw)。
しかし、ここでそれを「あきらめる」ということが、これを「理論」でない、というようには解釈していない。
つまり、オートポイエーシス論の観点から見れば、より本質的なのは

という方にこそあって、進化という「説明」はその事実の派生的な多くの解釈の一つに過ぎない、といった印象を受けるわけである...。