多様性の哲学

今回のラグビーW杯は、日本での開催であり、かつ、日本チームの活躍もあり、大いにもりあがった。しかし、このW杯を見て、どんな点に日本の観客は魅了されたのだろうか?
その一つとして、どうしても考えなければならないのが、

  • サッカーとの差異

ではないだろうか。

藤島:ラグビーって、小さな社会なんですよ。ほんと、わたし、12年間コーチをして、つくづく。俗説で、よくラグビーやってた人がビジネスで成功するとか、世界中で、そういう本がたくさんでているんですけど、日本だけじゃなくて。フランスの本なんかにも、小さな社会なんだ。背が高い人、低い人。
役割がいろいろあってね。
で、痛いし、つらいけど、そこで団結すると。
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藤島:そのポジションで一番うまい人を選んでいくと負けるんですよ。大西鐵之祐さんという、かつてのジャパンの名勝で、早稲田のスポーツ哲学、闘争の倫理って、ラグビー、闘争的スポーツが反戦論に結びつくって、わたし尊敬している人なんですけど、その人がよく言ってましたね。社長になる人が15人いたら負ける。それ、5人ぐらいでいいんだ。あとは、経理だけ絶対やり通すとか、営業でばんばんとってくるとか、それは言えてますね。個性を組み合わせないと勝てないんですよね。
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神保:今日あまりいえなかったんですけど、ラグビーにはブレイクダウンの前に、タックルっていうのがあるんですけど、これが、考えてみると、無謀な行為ですよね。人が走ってくるところに、足元におもいっきりとびこむ、頭から。
藤島:これがあることによって、身体能力がすぐれているだけでは活躍できないスポーツになる。通信簿5段階で、体育3のやつにチャンスがでてくる。他の要素が、人間の要素がいろいろでてくるので、怖いとか。痛いとか。今度、そっちに耐性のある人が、運動神経がそんなによくなくても、でてくる。
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サッカーは、非常にルールが単純である。もちろん、キーパーとその他の選手には明確な役割の違いはあるが、それ以外には、ほとんどルール上の違いはない。一見すると、フォワードとディフェンダーは違う位置付けのように思われるが、別に、ディフェンダーフォワードをやってもいいのであって、というか、この「戦略」は、あくまでも、チーム構成側が、選手に課している「約束事」に過ぎないわけで、本質的に、だれがなにをやってもいいのだ。
ところが、ラグビーには、明確な役割分担があるように思われる。
そして、大事なポイントとして、そこで求められる「能力」が、必ずしも、

  • オールマイティ

のタイプではないことなのだ。上記のサッカーでは、本質的にルールが、「全員同じ」になっている。よって、フォワードとディフェンダーには本質的な差異がない。ところが、ラグビーにおいては、明らかに

  • 各「役割」において「求められているもの」が違っている

という特徴がある。
こういった性質は、どこか、野球に近いことを匂わせる。
こういったラグビーの特徴を説明するものに、私たちの人間の

  • 社会

があることが分かるだろう。
ラグビーは「社会的スポーツ」である。ではこの場合の「社会性」とは何を意味しているのだろう?
社会性とは、さまざまな特徴をもったアクターが、それぞれ単独でその性能を云々するのではなく、それぞれのアクターが組み合わされた集団としての性能を考える。この「性能」というときに、その集団の中に、それぞれの場所での「役割」が想定され、その役割ごとの「最適化」が、全体の「最適化」と相関する関係となる(ここでの「最適化」は、ほとんど「合理性」と同値となる)。
この考えの前提には、

  • 各団体に対して、オールマイティより専門特化の方が全体効率的

という前提がある。
(この場合、多様な状態を保ったまま未来まで「進化」する。)
こういった考えには、そもそも

  • ある「社会」という構造があり、その中に、それぞれの「役割」を求められるポジションがあり、さまざまな理由から、それぞれの人がそのどれかにあてがわれている

という、この社会に対する認識が前提とされている。
対して、「進化論」は、なんと言っていたか?
彼らは「適応」と言っていた。つまり、

  • どれが「適応」なのか?

が問われる。つまり、進化論とは、

  • 「社会性」の否定

なのだ。進化論は、あらゆる「存在」を単線化する。リニアーに並べて、「最も最適なもの」を仮想的に、未来の「正しさ」として、実体化する。これは、日本の義務教育での、学力テストでの成績上位者を

  • 進化論的「最上位者」

のアナロジーとして、「エリート=貴族」として、特権的な存在として優遇すして、と要求する(東大などの国立大学の入試、センター試験が、基本的に「全教科」のオールマイティ型を要求していることが、このことをよく説明する。そういう意味では、私立大学は「専門特化」型だと言えるだろう)。
しかし、そうすると変なことになる。
つまり、進化論的「最適化」論は、必然として、

  • 社会のフラット化

に帰結することが要求される。しかし、どうだろう? 「社会」はそのようになっているだろうか? なっていない。いや、はるか未来にはそうなるのだと強弁することは、そもそも、なぜ今そうでないのかを説明していない。
ということは、どういうことか? ここで話している「進化論」には、なんらかの瑕疵があることを意味する。
というか、そもそも「進化論」は、そういった「社会性」を説明するようなモデルを、いろいろ考えてきたのだ。
ところが、文系学者が、

  • 好む

進化論は(つまり、スペンサー流の「社会進化論」であり、ナチスが好んだ進化論は)、そういった社会性や集団性を、なにか意味のあるものと考えることを嫌がるわけだ。なぜなら、それでは、彼らの

  • 学問的優越性

を価値化できないからだ。
さて。もしここで、その人が「物理主義」という立場をとるとき、この「社会」の「役割」の、「合理性」を、言ってみれば

から、演繹的に導かれなければならない、という形になると考えられるだろう。つまり、もしもそれが導かれなければならないとするなら、その「システム」は、どういった道筋から現実化したのかを、別の形で説明しなければならない。
これを、ある程度実現しているのが、「オートポイエーシス論」だと考えられるかもしれない。つまり、

  • 偶然にできた構造そのもの

が、次の方向性を決定している、という関係である。この繰り返しが、ある傾向性としてのパターンを形成していく。
この系列には、さまざまな「偶然」が関与しているから、これをもう一度「同じ」行動を繰り返したら同じになるかが分からない。つまり、ここで「偶然」と言っているものの「因果」が、ここで焦点をあてている「観点」とは別のものだから、その「情報」が膨大になり...。