サイコパスとは何か?

プロのサッカー選手が、公式試合でシュートを決めると、回りの味方の選手と

  • 抱き合う

姿は、私たちの日常を考えたとき、とても印象的に思われる。つまり、それだけ私たちは「スキンシップ」というものをとらない日常を、近年は生きていることを意味している。
なぜプロのサッカー選手は、抱き合うのか? それは、言うまでもなく、それだけ一点をとることが大変だからだ。嬉しいからそうするのであって、選手たちはそれが変なことだなんて少しも思っていない。
ある選手のシュートが決まったということは、その選手に、だれかがパスをしたから、その選手はボールをもっていたのであって、そのパスをした選手がパスを成功させたことと無関係ではないし、もっといえば、その選手に対して、同じように誰かの選手とのパスを成功させた、という関係になって、と続いていく。こういった「成功」の積み重ねが結果として、一点となるのであって、問題はこの「成功」なのだ。
もしもこのパスの「成功」が、

  • どうせ、できるわけがない

と考えるなら、そもそもだれもパスをしないし、最終的に点も入らない。しかし、だとするなら、このパスが「成功する」と考えるのは、何を根拠にしているのか? なぜ相手が自分にパスをしてくれると「思える」のか? それは相手を

  • 信頼する

ことと無関係ではない。ということは「相手を信頼できなければならない」という関係になっていることがわかる。では、何が私たちを「相手を信頼できる」と思えるようになっているのか? これを私たちは

  • 愛着形成

と呼んでいる。これは何か? これは私たちが「忘れている」感覚である。さて、忘れているとは?
あなたは「産まれた」とき、当たり前だが、

  • 一人では生きられない

わけだ。必ず、誰かが私を「生きさせよう」と世話をしてくれたから、こうやって今、生きている。この、

  • 誰かが私を「生きさせよう」と世話をしてくれている

ということを

  • 信じることが<できる>

ことが

  • 愛着形成

である。こう考えてみればいい。もしもこれが信じられなかったとしたら、私たちはどう振る舞っていたか、と。まず、自分で自分を生き「させ」なければならない。そして、この場合に、他の誰かを「利用する」ことができない。なぜなら、他の人を信用「できない」のだから。よって、そうである中での、最も「生きる」可能性の高い行動を選択するしかない、ということになるだろう。
もしも誰も信用できないなら、その中で、最も「生きる」可能性の高い行動はなんだろう? おそらく、その選択肢の中に必然的に

  • 他人を裏切る

行為がそこで選ばれる可能性の行為の中に入ってくるだろう。しかし、もしも他人を裏切れば、さらに相手が「信頼してくれない」という態度を硬化させるわけで、別の「信頼戦略」という視点からは、より不利な方へと追い込まれている現状があらわれている。
このことは何を意味しているのか?
つまり、私は「合理性」という言葉を疑いたいのだ。なにかを「合理的」と考える根拠はなにか? もしもそれを、

  • 物理法則

のレベルから「証明」しようとしたとき、必然的にこの「サイコパス」戦略が正当化される。しかし、この戦略はあくまでも、

でしかない。あした一日だけを生き抜くのには、ある意味で「回りの人間全員を殺せば、少なくとも、その回りの人間から殺されない」ということは真理だから。しかし、

  • その回りの人間の<中>で長期的に生きていくことを想定したとき

その行動は最悪と言わざるをえない。しかし、問題はどうやって、その回りの人間の中で生き続けることが「合理的」だと思えるのか、なのだ。何がそれを合理的だと考えさせるのか。どんな「計算」がそれを合理的だと正当化させうるのか? おそらくここには、たんに合理的だけでは正当化させることのできない

  • 飛躍

がある。つまり「歴史」である。事実として、人間は「そうやった」ことによって生きてきた、ことからこれを「信頼」する戦略を選択することが始めて正当化される。それは、たんなる

  • 物理法則

からはでてこないのだw
プロのサッカー選手がシュートを決めたときに、周りの味方の選手と抱き合う。この抱き合うという行為は、そもそも相手を

  • 信頼

していなければできない。相手の懐に入ったということは、もしも相手が殺意をもっていれば、相手は簡単に殺人を成功させる。だからこそ、それは

  • 相手を信頼している

という自分の心を相手にメッセージとして送るのに一番分かりやすい行為なのだ。
ニコラス・ルーマンの本に『信頼』というタイトルのものがある。
人間社会のさまざまな仕組みの中には

の立場にたってみんなが行動すると成立しないものがある。つまり、参加しているみんなが「性善説」を信じていると仮定することによって人間社会の中の、多くのシステムが回っている、ということがある。
これは、実際に人々が「性善説」を生きているかどうか、というよりも、「人間とはそういうものだ」と、仮に考えたときに「合理的」になる行動を、とりあえず、人々が従って「みている」という関係と考えられる。
なぜ、ここで私がこいった関係に注目しているか、というと、こうした「ゲーム」に参加しることによって、始めて「学べる」

  • 高度な<技術>

や、知識や人間社会の「しきたり」がある、ということなのだ。そして、そういった作法を身につけている、ということが、さまざまな場面で

  • 暗黙の了解

として、意志疎通をスムーズにする。そして、「高度な」コミニケーションの「効率化」を実現する。
ここで、大事なポイントは、この「性善説」を<演じる>ということが「できない」人が、一定の割合で存在する、ということなのだ。彼らの特徴を、わかりやすい比喩でいうと

  • 冗談が通じない人

に似ている。こういった人は、すべてを「性悪説」でしか考えられない。つまり、ダーウィンの進化論のように、あらゆることを

のように、信頼行動をとるか裏切り行動をとるのかの

  • 二択

をすべての瞬間で「選ぶ」計算行動をとらずには「我慢できない「わけで、

  • 定常的に「信頼」戦略を選択する

という「決断」ができない。こういった人たちは、つまりは、

  • 計算っ子

なのだ。あらゆる行動を、「それが損か得か」の計算をやらずには、一歩として足を前に出せない。つまり、この

  • 膨大な計算

をどんな瞬間でもやらないでは「気が済まない」のだ。このことが、どれだけ異常なことは分かるだろう。
ある子どもが親に甘えようと考えたとき、必ず

  • どっちにするか

を計算しなければならない。つまり、この「計算」に

  • ものすごい「エネルギー」を日々使っている

ために、いざ他のことをやろうとすると、すでに、疲れているのだ。しかし、多くの場合、子どもは親に甘えようかどうかなんて悩まないw

  • 甘えるにきまっている

のだ。親に甘えちゃいけないなんて、一度たりとも考えない。もちろん、そうであるからこそ、親に裏切られれば、大変なことになるだろう。しかし、そうだからこそ、まったく親は裏切らないと考えているからこそ

  • 頭を「他のこと」にリソースをさける

といった「余裕」を獲得しているのだ。
ここで、考えた、親に対する子どもの態度を

  • 愛着形成

という。この愛着形成が不十分なまま「育った」人をここでは「サイコパス」と呼んでおこう。
よってサイコパスは「頭が悪い人」とは限らない。むしろ、むちゃきうちゃ頭がいい場合もある。しかし、彼らは、つきあいが長くなればなるほど

  • なんか変

なのだ。どこか「人間味がない」性格だ、ということになる。
しかし、上記までの議論を振り返れば分かるように、サイコパスはあらゆる全ての森羅万象を「計算」するのだから、

と基本的に言っていることは変わらないのだ。科学は「真理」を追求する場所とされているわけで、そういった世界ではサイコパスは「(物理法則から)正当化される」行動をしている、という意味で

  • 好意的に受け取られる

わけである。むしろ、私たちのような「単純に他人を信じてしまう」人間主義的な、道徳的な人間を

  • 嘘くさい

として、

  • 非合理的

として、「遅れた人間」として彼らは「計算」する。自然主義であり、物理主義は、どんなことも

  • 物理法則から<演繹できなければならない>

と考えているのだから、一見してそれに反した行動をしているように思われる

  • 普通の人間

  • 嫌い(彼らが理解「できない」という意味で)

なのだ。こういった分析から、なぜ功利主義が「反道徳的」なのか、なぜ功利主義者はカント主義を徹底して

  • 敵認定

しているかの理由が分かるだろう。つまり、功利主義とカント主義は

  • 計算しているもの

が違うのだw 功利主義者が計算しているのは

  • <私>が今日、明日を生きる「確率」の高い行動

であるのに対して、カント主義者は

  • <私たち>が、はるか未来まで生きる「確率」の高い行動

なのであって、そう考えたとき、なによりもカントが重要視したのが「人間の尊厳(=人間主義)」であることが分かるだろう。誰かが誰かを「重要と考えない」と想定されたとき、この人間社会の「社会システム」を回している

  • 信頼

は継続しないのだから、そもそもこの、人間の「社会システム」がそこで終わるのだから、たんにその時点で、長期的な人間の

  • 生存確率

は望めないのだから、どんなに功利主義者は「明日の<私>の生存確率」を計算しようが無意味なのだw
ニコラス・ルーマンの社会システム理論から考えれば、そもそも、この人間社会という

  • 社会システム

は、合理的なのではなく「歴史的」なのだ。なぜか分からないけど、ある日から私たちは他人を「信じて」生きてきた。そして、

  • 結果

として、こうやって人間は今に至るまで生きのびてきた。「だから」この、人間社会という「社会システム」があるのであって、それ以上でも、それ以下でもない。つまり、これは

  • 合理化できない

のだ。

  • みんなが「そう」振る舞っている

から続いている「システム」を、なにか他の理由によって根拠づけることはできない。しかし、そう、みんなが「振る舞っている」から、この社会は

されていることになり、この予測によって、人々の行動は「効率化」される。つまりは、他人を信じているから私たちは

  • より「難しい」人間社会の長年の困難

にとりくむことに、多くの「リソース」を割けることになっている。だから

  • 私たち

は今まで生きてきたのだ...。