私は実在論がなにか分かっていない:補足2「生物種は自然種か?」

以前から問題にしている、植原先生の『実在論と知識の自然化』であるが、私はこの本を読んでいて、作者はなにかを根本的に勘違いしていると言わざるをえないんじゃないのか(または、頭が悪いかw)、という気がしてきた。

たとえばギセリンの考えはこうである。共通の祖先に由来する個々の無性生殖生物のそれぞれは、たとえ相互に類似していても、生物種という同じひとつの個体を全体として形作るような部分として存在するわけではない。それらの生物個体はいわば勝手に行きているだけであり、せいぜいその系統は「歴史的存在者 historical entity」と呼びうる程度のものでしかない、というのである(Ghiselin 1978:cf. Ereshefsky 1991:Sober 2000:158 邦訳三〇九頁)。
ところがこの主張は、生物学上の実践に著しく反する。一般に分類学者には、あらゆる生物個体が何らかの生物種に属すようにしなければならない、という制約が課せられるからだ。ギセリンの主張は、この制約の前提を掘り崩すものだといえるだけに、他の個体説論者からでさえ賛意が得られているわけではない(cf. Stamos 2003:246-8)。また、無性生殖する生物を「歴史的存在者」なるものとして位置づけるのも、存在論的なカテゴリーを恣意的に増やしているだけだとの批判を免れないだろう。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

上記の議論が何を言っているのか分かるだろうか? ちなみに、植原先生のこの本を、正面から批判している以下の論文でも、この個所が槍玉に挙げられている。確認しておこう。

(a)についてこれを見るには、種個物説論者の目標を振り返ってみることが有益である。ハルやギゼリンの議論のポイントは二つに分けられる。一つは種は種類ではないことを示すことであり、もう一つはその代案として種は個物であることを示すことである。種が種類であることを示すにはこの両方を批判しなくてはならない。しかし上の批判は、ハルらの第二の議論の適用範囲が有性に限られていることを示すだけで、第一のポイントの批判にはなっていない。そうすると、第二のポイントには賛同しなくても第一のポイントは受け入れられるという選択肢も出てくる。実際、系統学者(分岐学者)は無性生殖も考慮の対象に入れるが、彼らの多くも----ハルらの立場を直接受け入れないにしても----その問題提起は真剣に受け取り、種は種類ではないと考えうのである(また系統学者の中にはワイリー(Wiley,1981)のように生物学的種概念を受け入れずに個物説を支持する論者もいる)。
(網谷祐一「自然種・種・人種」)
自然種・種・人種

この驚くべき、議論の噛み合わなさが、何から出来しているのかは興味深いところである。まず、植原先生は驚くべきロジックを行っている。上記の引用において、ギゼリンの、生物を「歴史的存在者」として定義する立場を、これまでの

の「実践」と矛盾しているじゃないか、と怒っているわけである。分かります?
これの何が変なのか? それは、以下の、この分野においては、あまりにも有名な本を読めば明らかなのではないでしょうか?

ダーウィンは、分類学がある基本的な考え----生物は永遠に不変だという考えに基づいていることを、どういうわけだか忘れていた。アリストテレスは種は不変だと考えた。リンネが分類したのは単なる種ではなく、神が創造した不変の種、すなわち天地創造の日から変わっていない種だった。当時、世間は人は皆、生物は不変だと考えていた。いったい誰が、生物が進化することを知っていただろう。不変の種からなる不動の階層構造、それこそが自然界の秩序なのだ。
(キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』)
自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

植原先生の言っている、「分類学者」っていうのは、植物分類学者のリンネのことを言っていることは間違いないでしょう。しかし、リンネがやったことはなんでしょう? この『自然を名づける』という本を読んだことのある人なら分かるように、ほとんど

  • 神の啓示

と変わらないような、「分ける」実践だったわけでしょう。なんで、リンネは、そういった分類をしたのか? それは、その「区別」が、直観的に、あまりにも

  • 自明

だったから「だけ」ではないわけです。もしもそれだけなら、ここまで、自信満々に答えないです。彼をここまでも「確信」のもとに答えさせたのは

  • 種は不変

と考えていたからなわけでしょう。なぜなら、生物種は神が造ったと当時は「常識」として考えられていたからです。こういった「常識」が、人々に共有されていたから、リンネの「分類」は彼をして、これでいいと確信させたわけでしょう。
ということは、どういうことでしょう?
もしも、リンネが「ダーウィンの進化論」を知っていて、それが、世の中の「常識」となっている時代に産まれたら、彼はこんな「植物分類学」を

  • やらなかった

わけですw
さて。ということは、どういうことでしょう? つまり、「現代」の生物学者のことです。彼らは、どう振る舞っているのでしょう?

なぜ生物種について本質主義が誤った見方なのかを見るためには、体系学の実践それ自身を検討しなくてはならない。表形学者という例外はあるが(彼らの立場は後に論じる)、生物学者は、表現型上のあるいは遺伝的な類似性からは種は定義されないと考えている。トラは縞模様があり肉食性であるが、突然変異でそうした形質を欠いたトラも、トラであることには変わりない。もし種分化という出来事が生じなければ、トラの子孫はトラであり、それが祖先にどのくらい似ているかということは問題でない。同様に、もし地球上の生物から独立に他の惑星で生命が生じたことがわかったとしたら、そうした異星生物は----どんなに地球上の生物と似ていたとしても----新種とされるだろう。火星のトラは、縞模様があり肉食性だったとしてもトラではない。生物の間の類似性と差異はそれらが同種であるかどうかの証拠ではあるが、種は形質の集合によって定義されるわけではない。手短かに言うと、生物学者は種を歴史的存在(Wiley 1981)として扱っているのである。生物学者は、種を自然種として概念化しているのではない。
(エリオット・ソーバー『進化論の射程』)
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

まあ、当たり前のことを言ってません? 生物学ですよ? 生物学の学者が、あるトラがいたとして、たとえどんなに見た目が違っていたって、実際にそのトラの子どもであれば、それを

  • トラの親と、トラの子ども

と「呼ぶ」ことによって、その連関を解釈するわけですよね。というか、生物学って、こういうことばっかりをやっているんじゃないんですか? っていうか、それ以外に何があるんだろう? 植原先生は、まず変なことを言う前に、一回、自分が生物学者になって、生物学とはなんなのかを勉強されてはどうなんですかね?

まず、ある生物種の全成員に共通する固有の遺伝子構造が存在する、というのは端的にいって誤りでしかない。というのも、自然に見られる遺伝子的変異はきわめて多く、同種の成員のすべてに共通する固有の遺伝子構造を見出すことなどできないからだ。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

いや。それは、遺伝子も、その他も同じなんじゃないのか? 遺伝子が駄目だから、他の「共通」項目でって、論理が本末転倒でしょう。そうじゃない。生物学者は、たとえどんなに

  • 違って

いても、その「親子」のもつ「生物学的な性質」を探究し続ける人たちなんでしょ? つまり、議論が逆立ちしているのだ。「共通」項目は先じゃない。常に、「後」から発見される。絶対に、この関係は前後しない。まず、「先」に「親子」なのだ。これを前提として、その諸関係が考察されていく。
そういう意味では、ここの議論で「遺伝子」を、自らの「実在論」の「本質」とすることを拒否していることは、示唆的だとも言えるわけである。もしも、これが「本質」なら、植原先生の立場としての、

  • 生物種は自然種である

が成立しない。なぜなら、遺伝子の「必須」の共通項目などというものが、その構造上、ありうるはずがないからだ。つまり、それでは植原先生の立場が成立しないことになってしまう。よって、植原がまずやったことが、この遺伝子主義を葬り去ることだった。しかし、その態度は、あまりに「論点先取り」ではないかw
ところで、上記の植原先生批判の論文でも書かれていたが、実は、植原先生は上記のようなことを、さんざん議論してきた後で、まるで今までの議論を全部ひっくり返すようなことを言い始めるわけである。

首尾一貫した実在論を構想するために、この問題に対して私は次のように答えたい。すなわち、そもそも個体がきわめて自然種的なのである。別の角度からいうなら、個体と自然種は慣習的には区別されるものの、両者は存在論的に重要な点で大きく共通しているのである。
個体が自然種的であると述べるには、個体にも自然種に類した理論的統一性があることを示す必要がある。つまり、個体にもまた基底的メカニズムと呼びうるものがあり、それが基礎となってその個体が特徴的な性質群として安定して現れ、そしてその個体についての帰納的一般化が偶然ではない仕方で成立している、といえなければならない。
さいわいこれについては、ミリカンが示している議論を参照することができる(Millikan 1984 ch.16:2000 ch.2)。ミリカンは、個体説論者のいい方を借りて次のようにいう。

今日のサヴィアが碧眼で、背が高く、数学が得意で、ゲイに対して不寛容であるなら、明日も、それどころか来年でさえも、ザヴィアがそうである見込みは高い。なぜかといえば、ザヴィアもまた「攪乱的な影響に直面した場合に変化に抗し安定性を維持する驚くべき緩衝機能を具えた......ホメオスタティックなシステム」だからであり、また明日のザヴィアは今日のザヴィアの一種のコピーだからである。今日のザヴィアは、さまざまな種類の保存則や恒常性(ホメオスタシス)の特定のパターンにしたがうことで、またザヴィアの体細胞が複製されることによって、昨日のザヴィアから直接的に生み出されている。そのため、今日のザヴィアは昨日のザヴィアに非常によく似ているのである。(Millikan 2000:24)

(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

さんざん、個体説ではなく、「生物種は自然種なんだ」という議論を展開してきておいて、最後の最後で、

  • 個体説の個体って、自分の定義する「実在論」にうまくあてはまりますね

って、結局、なんだったんだろうね。だったら、この本の、ここまでの議論を全部

  • 書き直した

ら、いいんじゃないんでしょうか。
うーん。恐らく、最初に答えがあるわけである。そして、その答えに合うように、ストーリーをでっちあげている。でも、私たちにとって、大事なことって、そういうことじゃないんじゃないのか、っていう、素朴が疑問があるわけである。

一般に生命進化の歴史は「カオス的」である。すなわちグールドが力説したように、ある時点において見られえた初期値の微小なゆらふぃがその後の出来事の経過に劇的な変化をもたらすという「初期値鋭敏依存症」をその特徴としている。
(松本俊吉『進化という謎』)
進化という謎 (現代哲学への招待Japanese Philosophers)

生物学においても事情は同じである。たとえ生命現象が究極的には物理現象に(存在論的に)還元されるとしても、だからといって生物学が無用の学問になるわけではない。生命現象には物理学では表現できない固有の創発的な意義----あるいは誤解を恐れずにいえば、固有の価値----があり、生物学は物理学的な語彙では定義不可能な独自の語彙を豊富に含んでいる。
(松本俊吉『進化という謎』)
進化という謎 (現代哲学への招待Japanese Philosophers)

つまり、さ。私が知りたいのは、なぜ「物理学における法則」と、「生物学における法則」が

  • まったく違った原理になっているのか

にあるわけであろう。つまり、物理学は基本的に「普遍的」な法則なのに対して、生物学ではその要求が、

  • 常に成立するわけではない

という圧倒的なまでな、条件の違いがあるわけでしょう。もちろん、物理主義の立場になれば、それは「今の生物学が間違っている」ということになるのでしょう。そして、はるか未来の科学においては、その問題は解決されて、科学は未来に向かって

  • 進歩

するんだと。でもこれは、まさに「キリスト教千年王国モデル」なのであって、今問題になっていることに、何も答えていない。
そうじゃない。そんなことより、なにより、生物学が

  • 多くの因果的な作用素が、膨大に絡まり合っている

ために、それらの「影響」が、

  • カオス的

な様相を示してしまう。完全な、非線形性であり、「初期値鋭敏依存症」であり、もはやその「定性」的な性質を、ことらさにとりあげることができない。
そもそも、ニュートン力学などの、理論物理学

  • 予測できる

科学であるのに対して、ダーウィンの進化論は、あくまで「偶然」の学問であって、具体的にその進化における変化がどうなるかを

  • 予測できない

という時点で、まったく違った性質の学問なんだ、っていうところから認識を合わせられなければ、同じような誤解を反復するように思わなくはない...。