映画「SHIROBAKO」と新型コロナ騒動

まあ、土曜日に映画館に見に行ったのだが、新型コロナ騒動とぶつかって、観客が入るのか心配だったが、初日はたくさんいた。
今の世の中の新型コロナ騒動については、少しずつではあるが「騒ぎすぎ」なんじゃないのか、といった論調が増えてきている。その大きな理由は、一つは株価の値下がりであり、「景気」への影響を心配してというもので、もう一つが以下であろう。

トランプ米大統領は28日、新型コロナウイルスの感染者数が多い国から米国への入国禁止措置について、適用拡大を検討していると明らかにした。具体的な国は明示しなかった。ホワイトハウスで記者団の質問に答えた。CNNテレビは、複数の米政府高官の話として対象国は日本と韓国になる可能性があると報じた。
米国入国禁止「日本と韓国が対象」と報道 新型コロナで拡大検討 - 毎日新聞

これで、日本とアメリカを行き来することで「ビジネス」をやっている人たちが「パニクっている」ということではないかw だから、なんとしても

  • こんなことは大したことはない

ということにしたいようだw
今の世の中の新型コロナ騒動は、まあ、分からなくはないが、そもそもこういったウィルスというのが何者なのかについて、多くの人が知らなすぎるんじゃないのか、といった印象を受ける。
言うまでもなく、風邪もインフルエンザもウイルスである。そして、風邪もインフルエンザも毎年、多くの死者をだしているし、つまりは

の病気である。つまり、これは「アフター・パンデミック」の世界なのだ。
ウイルスは、DNAまたはRNAをもつという意味で、「生物」であるが、普通の生き物について言うときの「細胞」をもたない、という特徴がある。しかし、ある種の「生物」であることは変わらない。つまり、ダーウィンの言う意味の「進化」がここに適応できる。
ウイルスは、そういうわけだから「生き残」らなければならない。つまり、私たちが今、「新型コロナ」と呼んでいるものだって、

  • (常識的に推論する限りは)人間以外の他の生物の「中」で何千年も生き残ってきた

わけである。ウイルスは「宿主」が死んだら、自分も死ぬ。ということは、基本的には

  • 宿主を絶滅「させてはならない」

ということになる。じゃあ、なんで近年「ウイルス」なるものが、やたらと話題になるようになったのかと言えば、人間が「自然」に介入し、そういった生物と接触する機会が増えたということと、言うまでもなく、物流・人的の両方の意味で、モノの行きかいが増えているということに尽きる。
まあ、普通に考えるなら、これだけのモノとヒトが移動している限り、ウイルスの蔓延は避けられない。つまり、「どっちか」を選ばなければならない、と考えるのが自然ではないのか?
しかし、上記でも書いたように、基本的にウイルスは宿主を「殺さない」わけである。ではなぜ死者がでるかということだが、一つは「弱者」が死んでいる、ということになる。つまり、年寄が死んだからって、若者が生き残れば、ウイルスの生存競争としては「問題ない」というわけであるw
(もちろん、「遺伝子操作」などの、さまざまな要因によって、何が起きるか分からないと言われればそうなのかもしれないが、基本的にそういったことは「確率は低い」と考えるしかない。つまり、「きっとそうなっているんだろう」と考えないとやっていけないというのもあるし、事実人間は今まで生き残ってきたのだから、「そうなんだろう」と思うしかないところもある。)
これを、「人道主義」の見地から、「一人として見殺しにしてはならない」と言い始めると、パニックになる。事実、今、日本の政府が行っている政策は、口では何を言っているのかとは別に、このパンデミック

  • ゆるやか(漸近的)

にすることによって、医療設備の不足による、医療を受けられなかったことによる死者を減らす、といった「目標」で動いているに過ぎず、そもそもこの「パンデミック」を回避しようとしているのかは、限りなく疑わしいわけであろう。
私に言わせてもらえば、毎日のように、アメリカと日本を行き来していて、こういった「ウイルス」の拡散を防ぐべきだと言ってることが、最初から無理な話なわけであろう。だったら、お前のその「行動」を止めればいい。でも、そうしたら、明日から生きていけない。だったら、こういった事態さえも受け入れるしかないし、たとえそれで、人類が滅びたって受け入れるしかねえんじゃねえの、とさえ言ってやりたくなるw
まあ、少し掲題の映画の話にもふれておこうかと思うが、今回の映画版では、テレビアニメシリーズから、何年かが経過した2019年が舞台となっている。その間に、この映画の中の武蔵野アニメーションという、弱小アニメ制作会社は、一度、倒産の危機にあい、大幅な縮小を強いられている。
そして、それぞれの登場キャラは、それぞれに挫折をあじわい、今までを続けることに、悩んでいる。では、この映画が描いた「復活」は、しょせんは「フィクション」なのか? 作り物の偽物なのか? まあ、半分はそうなのだろう。しかし、半分は彼らなりの実存が現れている。やる意味がないと思うなら、作品は作られないし、視聴者に届かない。しかし、こうやって視聴者に届けられている現状をどう考えるかは、一人一人に与えられている。私たちが生きていくということは、こういった「どっちなのか分からない」迷いなしには、常に考えられないものであるし、そういったことが描かれることに意味がある、ということなのだろう...。