オリンピックに音楽は必要か?

コーネリアス小山田圭吾が、94年にロッキングオンという音楽雑誌でのインタビューで、当時、20代中盤だった彼が、子どもの頃の障害者の子どもへのお「いじめ」を自慢げに話していたものが、そのまま雑誌に載っていた件が、ことこの、東京オリンピックの音楽担当として

  • 直前

になって発表された今となって、社会問題となっているのは、興味深い。
というのは、実は、この話題は、過去に何度もフレームアップされていて、実は、これが最初じゃないのだ。まあ、当たり前だが、こんな有名な雑誌で語っていたわけだから、知っている人は知っているわけで、知る人は知っている、周知の事実だったに過ぎない。
では、なぜそんな過去の話が今ごろむしかえされているかといえば、当たり前だが、こんなオリンピック開催の

  • 直前

になって、今ごろ「こいつが担当します」なんて発表されるから、に決まっている。
あーあ。
もうお分かりだろう。なんで、こんな直前になって発表されたか? もう、ここまで直前だと、他の人に変えられないからだ。つまり、このタイミングにした奴は

  • 確信犯

として行っている「悪魔」だということだ。
小山田は別に、この障害者「いじめ」に関してだけ、露悪を暴露したわけじゃない。さまざまな音楽雑誌で、さまざまな「悪魔」的な所業をやったことを、なんの反省もなく、自慢してきた奴だ。
そんなことは、過去のこいつの発言をちょっとでも調べれば、いくらでも分かることだ。じゃあ、なんでわざわざ、今回のオリンピック関係者は、こいつを選んだかといえば、言うまでもなく

  • 小山田と同じ「いじめ」る側に加担してきた連中

だからに決まっている。
こんな

  • 「いじめ」る側の策略

に、オリンピックが負けていいんだろうか? あのさ。いつから、パラリンピックの種目に、

  • 障害者に、健常者がオナニーをさせる競技

が追加されたの? いつから

  • 障害者にウンチを食わせる競技

が追加されたの? いつから

  • 障害者を簀巻きにして、健常者がバックドロップする競技

が追加されたの?
あのさ。なんでここまで、この問題がフレームアップされているかといえば、それが、これが「オリンピック」だからでしょ? つまり、オリンピックは、それだけ、高尚な理念を、この開催の前提にしているの。だから、今まで開催が認めてこられたの。
頼むから、今まら、こいつの音楽を開会式、閉会式の一切で流すのを止めてよ。そうじゃなきゃ、参加する選手が、かわいそうだよ。
考えてみてよ。オリンピックに音楽なんて、いらない。こんな「汚れた」音楽が流されるくらいなら、なにも音楽が流されない方がいい。
選手は、一切の音楽を流されないことを求めて、開会式と閉会式への参加をボイコットすべきだ。
なぜ小山田を許してはならないか? それは、今回の謝罪文にも現れている。なぜ、こいつは、大勢の記者の前で謝罪会見を開かないのか? それは、反省していないからでしょ。もしも反省していたなら、もっと前から、自らが「いじめ」た障害者の方に、謝罪をして来たのではないか? なにを今さら言っているのか。今まで、なにもやってこないで、この直前に、

  • もう遅いから、ボクの音楽を流させてください

って、完全な「テロリズム」じゃねえか。なに「テロ」に屈してるんだよw
あのさ。
彼は、私たちの世代の少し上なわけだよね。そして、私たちの世代の、多くの子どもは、特に、公立の子どもは、なんらかの「いじめ」の、加害者、被害者の立場であった苦い経験を共有しているわけ。つまり、当時は、かなりの学校で、そういった行為が見られた。
私たちの世代は、小学校や中学校で、かなり積極的に、そういった「いじめ」を行っていた子どもの顔を覚えているし、その名前を思い出せる。対して、そういった子どもに対して、多くの回りで見ているだけの子どもは、そういった子どもの行為を止めることもせず、ただ見守るだけしかできず、「間接的ないじめへの関与」をやったわけだ。そして、そういった中で、私たちは「人間なんて、ろくなもんじゃない」「どうつもこいつも汚れている」と悟ったわけだ。そして、それと同時に

  • 教師による暴力

が問題になっていた時代でもあった。
そして、彼が通っていた、中学校である、和光学園は、私立の学校でありながら、そういった、障害者と健常者を一緒の教室で教育することを売り物にしていた学校であった。言わば、そういった私立の学校の「理想」と「現実」の違い、恥部を彼が象徴していた。彼は、

  • 隠れて

障害者を「いじめ」た。そして、それを学校は把握できないまま、彼は20代中盤になって、音楽でチヤホヤされるようになって、その

  • 子どもの頃の「武勇伝」

を自慢しやがった。
そして、この話は、たとえ一部であっても、多くの人に知られていた。多くの彼と同世代の人は、みんな、彼を「腫れ物」に触るように、避けてきた。そして、実際に彼は、今の今まで、世の中に対して、こういった自らの「発言」を謝罪してこなかった。誰もが見て見ぬふりをしてくれると思っていた。
ところが、である。
唯一、彼を許さなかった存在があった。それが「オリンピック」である。オリンピックの高尚な理念と、彼の実存は、つりあわなかった。もしも彼が、今まで通りに、安穏と暮したいなら、オリンピックを避ければよかった。ところが、彼には、それができなかった。
これは、多くの「ヤクザ」がシャバに戻っても、世間に注目される場所には行かず、ひっそりと影の社会で暮すのと同じで、昔から、日本人には、それくらいの

  • 常識

があったわけだ。ところが、彼はそうでなかった。自分は、音楽雑誌で、自分の音楽の才能が認められた時点で、自らの一切の悪行は社会に認められる、

  • 認めさせられる

と過信した。そういう意味で、彼は私たちの世代が生み出した「モンスター」であり、鬼子なわけだ。
そういえば、今日は、細田守監督のアニメ映画「竜とそばかすの姫」を映画館で見てきた。そして、そう考えると、この映画も似たようなモチーフを描いていると考えていい。
主人公の田舎の高校に通う少女は、幼なくして、母親を失う。山の川で、溺れそうになっていた子どもを救うために、彼女の母親は単身で川に入り、その子どもを救うと同時に、川に流され、命を失う。主人公の少女は、その母親の行動をずっと許せず、理解できず、今まで過してきた。
その少女が、ネットの世界にアバターとして登場することによって、ある、孤独な少年と関係していくことになる。
最後に、その少年が、東京の、あるマンションで父親による暴力的な監禁状態にあることを知り、単身で、彼を助けようと、東京に向かう。そこで、彼女の父親はLINEのようなSNSで、少女が

  • 彼女の母親のように優しい子どもに育ってくれた

ことに感謝を述べる。
確かに、彼女はネットの世界のアバターとしての「歌姫」として、人々を魅了し、感動を与える存在として描かれる。しかしながら、一つだけ、小山田と違う。それは、彼女は

  • 彼女の音楽と彼女の、その少年を助けたいという優しさは繋っている

ということが前提になっていることが。つまり、感動的な音楽は、それを表現する人の「真心(まごころ)」がもたらす、という信仰である。
しかし、それは自明なんだろうか? もはや言うまでもないだろう。そんなものがなくても、小山田の音楽は一部の業界では評価され、それに便乗して、彼はいくらでも

  • 露悪的

に振る舞ってきたし、それを、この業界は許容してきた。まさに、筒井康隆が言った「芸術聖域論」なわけだ。日本中を

  • 悪魔

が支配している。そして、その総決算として、この東京オリンピックは行われようとしている...。