三枚目の意味

この前、何気なく、アマプラのアニメ「コブラ」の第1話を見たんだけど、まあ、多くの場合、第1話って、よくできているんだよね。
コブラは、ある日、ヴァーチャルリアリティの機械を使って、物語を体験していたとき、なぜか、コブラの見たストーリーは、そのサービスが提供する内容でなかった。
つまり、彼が見ていたのは、「過去」の彼の記憶で、彼は、その過去の記憶をなくしていた。次第に思い出すにつれて、彼の

  • 剽軽(ひょうきん)な性格
  • 三枚目の見た目

は、どちらも、彼自らが、宇宙海賊の追われる身元を隠すために行った整形であり、性格変更だったことが分かってくる。
つまり、コブラは、以前は、寡黙で、二枚目の人間だった。それを変えたのは、

  • 敵をあざむく

ためだった、というわけで「理由」があった、というわけである。
さて。この場合、この人は「剽軽」なのだろうか? 確かに彼は剽軽だ。でも、それは「自らを騙した」結果だった、というわけであって、何が本当のことなのかが分からなくなっていく。
しかし、である。
そもそも、「三枚目」とは、こういうことなのではないか? 自分を他人から下に見られるように振る舞うことは、自らをおとしめることによって、「誰か」の尊厳を守ろう、という行為である。こういった態度は、倫理的なのではないか?
同じような話が、アニメ「装甲騎兵ボトズム」における、主人公のキリコに対する、バニラやココナの立ち位置がある。キリコが寡黙なのは、彼が実際に、「戦争」をしていたからであって、つまりは、「余裕がない」ことに関係する。それに対して、バニラやココナを、彼の仲間として描くことは、キリコの深刻さに視聴者がすりきれるのを緩和する、役割がある。たんにキリコが、人を次々殺しているだけだったら、誰もこんな恐しい話を見たいと思わないわけだ。そういう意味で、バニラやココナがいることは、彼らが「三枚目」的な役割を求められていることと対応して、この作品における、

  • バランス

を実現している。私たちは、もう少し、世界を冷静に見た方がいいのかもしれない...。