資本主義を肯定するとは何を意味するのか?

東浩紀先生の『観光客の哲学』の第二部は家族をテーマにしている。しかし、ここで家族と言われると、当たり前だけど、柄谷行人の『世界史の構造』における、

  • 交換様式A

との関連がどうなっているのかが嫌でも、関係してきてしまうと思うわけだが、そういう意味では、東浩紀先生は、かなり家族の問題を語りづらくしている、という印象を受ける。
というのは、そもそも、東浩紀先生がなぜこういう話を始めたのかということを考えたとき、

  • 彼がそれを始めようとしたときには、すでに先行として、柄谷が『世界史の構造』を書いていた

から、といった諸関係が、どうしようもなくある、ということを言わざるをえないわけなんですね。つまり、柄谷が『世界史の構造』を書いたことに

  • 触発

されて、家族について書いている、という関係が、どうしようもなく示さざるをえないわけなんですね。
まあ、そういった視点で、東浩紀先生の『観光客の哲学』を見ると、

ということを言いたいわけでしょ。つまり、

  • ロシア

ですよね。ロシアの共産主義がいかに「絶望」だったのかを「発見」することによって(ロシアの「進歩主義」がディストピアとなったことと、保守主義の正当性との関係)、

という、

  • 反共

をライフワークにしている人なわけだ。彼は、リバタリアニズムを礼賛していて、

  • お金持ちはどんどんお金持ちへ、貧乏人はどんどん貧乏人へ

を根源的に肯定しているわけ。だから、ホリエモンとか、ニコニコの夏野とかと仲がいいわけだ。彼は、お金持ちが税金をとられることに反対している。税金なんて、どんどん貧乏人から取ればいいと考えている。つまり、

  • 資本主義

を「原理的に否定できない」というイデオロギーから逃げられない、と言いたいわけだ。つまり、

  • お金持ちはどんどんお金持ちへ、貧乏人はどんどん貧乏人へ

を絶対に否定できない、と言いたいわけだ。これを否定したら、

になってしまう。しかし、共産主義になったら、ロシアのような「絶望社会」になってしまうのだから、なにがあっても

  • お金持ちはどんどんお金持ちへ、貧乏人はどんどん貧乏人へ

を否定できない。つまり、日本の

の徹底的な肯定を行う。もしもお金持ちから税金をとれば、共産主義になってしまう。だから、絶対にお金持ちから税金をとってはいけない。
しかしね。こういった主張は、他方において「家族」を肯定していることと、どうしても矛盾してしまう。というか、その間の諸関係の解明がどうしても必要になってしまう。
家族関係は、柄谷で言えば、交換様式Aだ。他方、資本主義は、交換様式Cだ。だとすると、そもそもこの二つを肯定するということが、どういうことなのかがよく分からない。
例えば、最近放送されたアニメで『彼女、お借りします』というのがある。つまり、「レンタル」で彼女を借りて、さまざまなサービスを行うというのがあった。しかし、このアニメは、見ていると、かなり怪しい印象を受ける。というのは、どうしても暴力的というのか、そもそもそのサービスは、金銭の売買では成立しないんじゃないのか、といった危うさがある。そのことは、逆に言えば、それだけ、家族の中というのは、暴力とすれすれの関係になっていることを意味する。
では、これをさらに発展させて、夫婦を「レンタル」することは可能だろうか? つまり、お金で夫婦を「買う」のだ。
(こういった懐疑は、すでに、さまざまに実践の中で考えられてきている、という印象を受ける。例えば、レズビアンカップルが、精子を「買う」ことで、妊娠し、その子どもを二人の子どもとすることは、すでに行われてすらいるだろう。また、このことは、男性カップルについても言える。代理出産を利用して、その子どもを「二人の子ども」と考えることは、同様に行われてすらいるだろう。)
では、この逆については、何が言えるだろう。例えば、スマホゲーを考えてみたい。ユーチューバーのナカイドの動画を見ていると、中国で生産されたスマホゲーの特徴について語られている。その特徴は、とにかく、

  • やたらと「課金しろ」とワーニングが飛んでくる

というわけである。ダイアログが出て、わずらわしい、というのだ。どう考えても、ゲームをやる気をなくさせる、その仕様がなぜ行われているのかというと、そもそも

  • 中国のゲーム開発者は、「一千万円を課金してくれるユーザー」のことしか考えていない

から、というわけである。つまり、まったくお金を気にかけないユーザーは、どんどん課金して、そういったダイアログが出なくなるわけで、そういう人にとっては「快適」な状態になっている、というわけであるw
この矛盾は、日本のスマホゲーにおいても現れていない、というわけじゃない。よく言われる、無課金ユーザーは、やはり、さまざまなストレスを感じながらゲームを進めることになる。そのため、さまざまなクレームが絶えることがない。そもそも、お金を落とさないユーザーの声を聞いても、どうせお金を落とさないのだから、収入にならない。つまり、資本主義に矛盾しているのだ。
資本主義とは、こういうものだ。その「合理性」を考えるなら、全てのゲームは、

  • 一千万円の課金ユーザー(=お金持ち)

だけを「相手」にすることが「合理的」となる。つまり、全てのゲームは、その(ゲームの楽しさ、という)存在意義を失うのだ...。

追記:
東浩紀先生の「ゲンロン12」での最新の論文を見ると、最後に、ハンス・ヨナスについての言及が見れる。しかし、この名前は、最近の日本の文脈では、反出生主義との関係でよく言及された人だ。ちなみに、この反出生主義に明確に反対の立場で言論を続けているのが、盛岡正博なわけだが、彼は自らの立場を

  • 生命主義

と主張している。しかし、この二人の主張は非常に似ているわけで、ようするに

  • 人間が未来永劫に生き残るためなら、どんな非人権的なものも最終的には「肯定できる」

という主張とニアリーイコールだ、というところにあると私は思っている。保守主義の立場からの国家主義は、個人の人権を奪うものだが、「人類の未来への生き残り」という

  • 目的

のためには、最終的には国家の暴力は「肯定できる」ということなのだから、人間は「生き残るために生き残る」というトートロジーしかなくなり、全ての人類の理想は無意味となり、ニヒリズムに終わる、というわけである...。