VTuberと「おたく」

まあ、近年の動画配信コンテンツを見ていて、一番大きな革命は、

の登場だと言っていいんじゃないかと思っている。まあ、しかしそう言ってみても、まだまだ、認知度においては、低いわけで、それがどういう意味なのかを説明していかなければならないと思うが。
もちろん私は、こういった人たちが、なんらかの「アカデミックな意味での知的な活動」をやっていて、その最先端の知的な生産を強調したいわけではない。
そうではないが、もっと直截に、こういったものが特に日本で、どんどんと広がっているという「現象」に注目したい、ということなわけだ。
最近ニュースにもなった件としては、千葉県警が御当地の VTuber とコラボを行ったのだが、

なる悪の組織wによって、動画が削除された、というニュースがあった。
この件は、ある意味で象徴的だったと思っている。この謎の組織は、グルになって、地方で一人でがんばっている、女性の方を、「いじめ」たわけだ。服装がどうの、と言って。
まあ、すごいよね。フェミニスト団体は、そもそも、こうやって女性が「活躍」するたびに

  • いかがなものか

と言って、今までも、女性が活躍する場所を奪ってきた人たちなんだよね。ほんと、女性の方々の苦労がしのばれるよね。今だって、日本中で新型コロナで仕事が失くなって苦しんでいる女性がいるのに、彼女たちは、そういう人のために、なにをやっているんだろうね。
あのさ。このフェミニスト団体が言っていることは、

  • フェミニズムの教科書に書いてあるような、典型的な「教科書的回答」

なんだよ。彼女たちにとっては、絶対に文句のつけようのない「正解」を言ったつもりになっているわけ。
しかし、だよ。今回なぜ、これだけ反発がでたのかといえば、それは彼女が VTuber だったから、なわけでしょ。つまりさ。

  • その見た目の「アニメ絵」と、<彼女自身>をどこまで区別できるのか?

が疑わしいから、なわけだ。彼女が笑えば、その「アニメ絵」も笑う。そうしたときに、そもそも、そういった見た目を「対象」として、区別したり、分析したりしていいのか? それは、私たちが実際にその人を目の前にしたときに、こんな「アニメ絵」を分析するときみたいに、

  • 衣装のここが「ハレンチ」だからNGです

みたいなことを言えるのか、ってことなわけです。実際に目の前にいるんだよ? その人が、どんな格好をしていたって、その人を一人の人格として尊重するのは

  • 当たり前

なわけでしょ。
つまり、どういうことなのかというと、このフェミニズム理論というのは、戦後に世界中のアカデミズムで研究され、理論武装されてきたものなんですね。そして、その中で、一定のコンセンサスが大学内でできてきた。しかし、この VTuber というのは、つい最近の現象なんですね。それに、理論がついてきていない。
(もちろんそれ以外にも、そもそもこの VTuber の「衣装」とされているもののプログラミングに、大きなお金がかかる、という現在のテクノロジーの限界の議論もされていた。「見た目」の批判が、「安っぽい」からNGだ、というふうに解釈され、そのこと自体が、少ないお金で、独立してがんばっている女性を「排除」するインクルージョンを意味している、と受けとられる文脈も。)
私が VTuber を応援する意味は、むしろその「匿名性」にあると思っている。実際に、こういった人たちの特徴は、

  • とても人前に出て、人と話すことのできない

人見知りや、引きこもりや不登校児、「おたく」と呼ばれている人だから、なんですね。

つまりはルソーは、一般に政治思想家や社会思想家といった言葉で創造されるものとはかなり懸け離れた、現代風に言えばじつに「オタク」くさい性格の書き手だったのである。彼は、人間嫌いで、ひきこもりで、ロマンティックで繊細で、いささか被害妄想気味で、そして楽譜を写したり憐愛小説を書いたりして生活をしていた。『社会契約論』は、そのようなじつに弱い人間が記した理想社会論だったのだ。

私はある意味で、東浩紀先生の『一般意志2.0』の最初のルソー研究くらいまでは評価している、と言ってもいい。上記の引用にある意味で、東浩紀先生はここまでは、かなり本気で

  • 自らを「オタク」の当事者として同一化

していた。まあ、これには賛否両論あるのだろうが、少なくとも、こういった「他者」と関わろうとしていたんだよね。ところが、それ以降、

  • 観光客

とか言い始めてから、徹底して「リア充」側に立って、社会的な弱者を馬鹿にし始めたんだよね。そもそも、観光旅行をできないお金のない人を相手にしなくなった。お金のない人と真面目に話そうとしなくなった。人前に出てこない人を、人間扱いしなくなった。まあ、彼の反共というか、保守派としての本質が露出してきた、と言ってもいい(まあ、この傾向は、彼が対談をする相手を見るとよく分かる)。
これに対して、私が VTuber の「可能性の中心」と考えているものは、そういった人たちが、実際に

  • 人見知りや、引きこもりや不登校児、「おたく」と呼ばれている人

が「非常に多い」から、なんですね。まあ、人間としては「敗者」だよ。でも、こうやって

  • ヴァーチャルな形で人前に出て、話している

わけで、そういったものを普通に大きな可能性があると思うんですよね。
よく言われるのが、VTuber はアニメの「上位互換」だ、という主張ですね。つまり、アニメはそういう意味で、VTuber によって、超えられたんだ、と。以前にはあった、アニメのキャラのファンになるという現象や声優のファンになるという現象は、VTuber の登場によって、代替されうるものとして解釈された。というか、むしろ、声優こそが最初から、VTuber として事務所活動をしていたっていいんじゃないか、くらいの勢いだ、と。
こういった事態は、「アニメ絵」そのものの社会的市民権の獲得とも平行しているように思われる。上記のフェミニストたちが「幼稚」だと思うのは、今、現実に行動して生きている人へのリスペクトが感じられないことなんですね。いや、実際に、多くの VTuber とファンの

  • 分厚い交流

があるわけでしょ。少なくとも、こういったものは、まぎれもない事実性なのだから、一定の人格あるものへのリスペクトがないと、どうしようもないでしょ。いくら、教科書的な「正解」を言ってたって...。