民主主義は矛盾か?

もしも民主主義が矛盾なら、私たちが善を行うということは「人々に選挙に行かせない」ことだ、ということになるだろう。つまり、以前に、人々を「棄権」させるように、ネット活動を展開した東浩紀先生の活動は「正しい」ということになってしまう。
ただし、東浩紀先生の場合は言ってみれば、「人々をだまして」棄権させようとした、という意味では、その手法に対しては批判がありうる。

  • 人々は馬鹿だから、彼らを騙して、彼らを選挙に行かせないように「誘導」したことは「正義」だ

と考えるなら、それはいわゆる

ということになる。これについても、さまざまに議論がされている。パターナリズムは正当化できるのか? しかし、もしも民主主義が矛盾しているなら、そもそも、専制独裁、または、エリート独裁しか方法がないのだから、少なからず、パターナリスティックに、あらゆる手法がならざるをえない、ということになるだろう。
この「民主主義が矛盾する」という議論に対して、よく行われる主張が、

  • 無知

を巡る議論がある。ある人は、エリートではない。ということは、その人はエリートに比べて、「ある」知識が不足している。しかし、こういった人が「正しい」判断をできるのか、と問うわけである。
こういった議論の立て方は、奇妙だが、

  • 旧共産圏

では一般的だった。つまり、西側諸国と比べて、自国の優位性を主張する一つの理由として彼らは、それを自慢していたわけだ。だから、こういった国のエリートが亡命して西側諸国に来ると最初に葛藤するのが、この西側で行われている民主主義に対してだ、というわけである。
よく私たちは、

  • 主体的に行動しろ

ということを言う。しかし、ここには矛盾がある。なぜなら、知らないことについて判断を私たちは「できない」からだ。つまり、それについては、判断できない。これでは、主体的でない、と言うわけである。
世の中には、自分が詳しくない分野なんて、たくさんある。しかし、選挙を見れば、どこも、そういった話題を巡って喧喧諤諤の議論を行っている。しかし、私はその分野の素人だ。自分がその分野について正しい判断をできるとは思わない。そもそも、そのための知識すらない。だったら、私はこの判断の選択に関わらない方が

  • 公共的

な振舞いなんじゃないか、というのが「民主主義矛盾説」の基本的な主張である。
この主張は正しいだろうか?
ある意味で正しい、と言っていいだろう。しかしそれは、民主主義の「正当化」とは関係ない、というのが答えだ、ということになる。
どういうことか?
なぜ民主主義が正当化されるのかは、ちょうど、この「不可知論」の議論の逆になっている。つまり、

である。つまり、事態はまったく逆なのだ。問題は、

  • エリートは正しく判断する、ではない。つまり、彼らがする判断の「多く」がどんなに「正しい」判断をしていたとしても、それは選挙で選択を迫られている「それ」についての判断を正しく「行ったか」を担保しない

というところにある。つまり彼らは「選ばれた少数の人」であるがゆえに、

  • その数人が「選んだ」という行為が、その結果において「正しい」ということをなんら保証しない

というところにある。
選挙とは「これ」を巡る選択のための装置である。しかし、「これ」の判断を正当化するのに、エリートは機能しないのだ。なぜなら、エリートは

  • 少数

だからだ。つまり、最初から問題は「選択」ではなく、

  • 検算

こそが重要だ、ということなのである。そもそも真実とは何か? それは天才が「ひらめいた」アイデアのことではない。そのアイデアが奇抜であればあるほど、その芸術性やアカデミズム的な知的な興味は大きいかもしれないが、そんなものは、ここでは求めていないわけである。
ここで大事なのは、

  • さまざまな角度

から、この選択の妥当性を検証する「じみで時間がかかり地道な」作業なのだ。
これが集合知である。集合知が現れる場面で起きていることの特徴は、

  • ある天才が発見した、才気あふれるアイデア

に比べて、

  • さまざまな世界中の人が、「普通に考えて」こうなるだろうと考えた思考プロセス

が、

  • 膨大なまでに「重複」する

という現象によって、結果として、上記の「天才のアイデア」の「常識的な観点からの盲点」が批判される、という形になる、というところに特徴がある。
このことは、なにを意味しているのか?
私たちは、「知識」をどれだけ知っているのかが大事だと思っている。しかし、民主主義的な選択においては、多くの場合、それは重要ではないわけである。なぜなら、民主主義は、

  • オープンに開かれた議論の場

が前提になっているからだ。つまり、専門家は別の専門家に批判されることで、

  • 何が今、問われている論点なのか?

が絞られているのである。そして、この論点自体は、そもそもそういった多くの専門知識を必要としない。つまり、

  • それ自体

はすでに議論がにつまっていて、「形式化」されていて、最終的には、その形式的な理論の整合性や無矛盾性に変わっているからだ。つまり、この段階まで、議論が昇華されると、

  • すでに専門家の手を離れる

という事態になる。つまり、「それ」を巡って、世界中の人が「証明活動」を行って、結果として多くの人が、比較的に妥当な範囲で同じような結果に導かれる、という事態になる、というわけである...。