理性の越権行為

カントが批判哲学というものを野望したとき、哲学は「経験論」によって、席巻されていた、と言っていいと思う。つまり、フランシス・ベーコンの「ノヴル・オルガヌム」であり、ようするに、

  • (自然)科学

である。そして、この流れは、現代の分析哲学においても連綿と続いていて、つまりは、基本的に学問とは「科学」のことだ、と、学問とは「経験」の学問なんだ、と整理されたわけである。
これに対して、カントは反対した。いや。カントは、ベーコンの経験論を、これ以上ないまでに礼賛した。対して、

  • 哲学はそれだけじゃない

という形で、それを補う理論(形而上学)を野望したわけである。
なぜ、カントはそうしなければならなかったのだろう? そこには、昔から議論のある

  • 経験論と合理論の対立

がある。合理論とは、言わば、

  • 私たちの日常会話

を考えてみればいい。こういった形で話されているものには、必ずしも、ベーコンが経験論=科学として提示した「帰納法」によって示されていない言説が多く含まれている。つまり、

  • なぜ「日常会話」は、ベーコンの言う経験論的帰納法によって証明されていない主張が含まれているのか?

を、彼は「楽天的」に無視できなかったわけである。
こういった態度に対して、まるで「反対」の反応を示したのが、経験論者=分析哲学者だ。彼らは、カントを嘲笑した。学問とは、科学のことであって、つまりは「経験」の学問のことであって、それ以上でも、それ以下でもない。一切は「経験」によって記述されるのであって、それで誰も困らない、と彼らは主張し、カントを糞味噌に、ボロクソに、嘲笑しまくった。
ところが、である。
近年において、再度、カントの再評価が行われている。それは、むしろそういった経験科学の最前線である

  • 脳神経学者

たちによって、改めて、カントの言っていたことが、最先端の脳科学に示唆に富む発言を行っていることが「再発見」されることで進んできた。
はて。どうして、こういうことが起こるのだろうか? それは、言ってみれば、学問を「徹底」するということが何を意味するのかを、彼ら経験論者たちは分かっていなかったから、と言うしかないだろう。
なんらかの「謎(なぞ)」があるとき、私たちにできることはせいぜい、それと真剣に向き合うことでしかない。つまり、その大きな「問題」を、まずは受けとめて、それを巡る考察を始めるしかない。つまり、これについての「徹底」において、経験論者は、どこか「怠け者」であり、「楽観主義者」だった、ということになるのではないか。
このことは、次のように問うてみればいい。ある「謎(なぞ)」は、

  • 観察

すれば、すぐに「答え」に辿り着くのだろうか、と。なにかを観察することは重要であるが、別に、そうすれば「答え」が見つかる、なんていうことは誰も保証していない。
しかし、である。
実は、これに対して、「必ず答えが見つかる」という世界があるのだ。それが、受験勉強であり、大学入試だ。こういった問題には

  • 必ず

答えがある。そして、「それ」に辿り着くための「最短距離」を教えるのが、東京にある、エリート高校であり、エリート予備校だ。こういった所でトレーニングをされた子どもたちは、

  • 世の中を「あんちょこ」を通してでしか見なくなる

わけである。つまり、全てを「思弁的」にしか語らなくなる。なにを言っても、「ああとも言えるし、こうとも言える」みたいな、

  • レトリック

でしかモノを語らなくなる。そして、どんな質問に対しても、「それに先取りして」、なにか気のきいた、文系的な、人を馬鹿にした、ジャーゴンでけむにまくわけである。
彼らは、何か、積極的なことを言わなくなる。なぜなら、そういった発言は「間違うリスクがある」から、そういう危険は冒さないわけである。なにか、「生産的な活動」に関わろうとしない。とにかく、権力者に気にいられることを言って、

  • 世渡り

をしていくことだけに、人生を捧げる。
まったくこれと同じ構造になっているのが、キリスト教の信仰である。ニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、彼らキリスト教徒は、それを「そのまま」の意味で受けとりながら、次のように言うわけである:

  • あなたは、「あの」神はニセモノだと言うんですね。だとしたら、「本当の」神はどこにいるんですか?

と。このことは、いかに「信仰」が、私たちの精神の奥深くまで、へばりついているのかを意味している。彼ら、棄教したキリスト教徒は、今までの「神」であった「聖書」は放棄しながら、

  • 新しい「神=自然科学」

に、「ホントウの神」を見出そうとして、自らの全生涯を捧げるわけである。今までの神は嘘だったことを受け入れるということが、

  • 本当の神=自然科学

に「乗り換える」ことが、どんなに異常なことなのかを理解しないわけである。つまり、彼らは何も変わっていない。彼らは、たんに「新しい神」に乗り換えたに過ぎなく、ここにある構造は、まったく同じわけである。
ある科学的な「発見」があるとする。そのとき、彼ら、棄教をしたキリスト教徒は、そこに

  • 神の徴表(ちょうひょう)

を見出すわけである。もしもこれが「真実」だとするなら、それを私に見せた「神が存在する」ということを証明している、と。つまり、

  • 自然科学とは、「この世に神が存在する」ことを「証明」するため

の、一種の「神学」としての意味を帯びてくるわけである。
そして、この話はこれで終わらない。
つまり、ここには「キリスト教<進歩>主義」の色彩を帯びて現れるわけである(いわゆる「千年王国」主義)。彼らは科学の発見を「進歩」と呼ぶ。すると、彼らはこう考えるわけである。

  • このまま、ずっと科学が発展し続ければ、最後には、「本当の真実」に辿り着ける。

ということは、どういうことか? つまり、「神は存在する」ということが証明される、ということになるわけである。よって、

  • 私たち人間が神の領域に辿り着く

ということを意味する。そのとき、人間は「神」になる。もともと、キリスト教においては、人間とは「神の似姿」として描かれるわけですから、最終的に「人間が神だった」という真実に辿り着く、と主張することには、必然性があると言ってもいいわけだ。
さて。科学は「進歩」するのだろうか? このことは、一見すると当たり前のように聞こえるかもしれない。しかし、もともと哲学者が語ってきたことは、どこかこれを否定する側面があったわけである。
古くは、ソクラテスが『ソクラテスの弁明』で、

  • 人間の知の<限界>

を語ったのと同じように、カントは17世紀において、再度、「人間の知の限界」を、純粋理性批判で問いたわけであり、この伝統を、ストア派の流れと考えることもできる。
ソクラテスやカントが問うたのは、そういった「進歩派」の哲学者が楽観的に信じたような

  • 人間の知の無限の進歩

によって、「どんな真実にも、人間は、いつかは辿り着ける」
を「信じる」行為に対して、

  • 私たち人間は、もっと「謙虚」でなければならないんじゃないか?

という「倫理的」な態度を置いたわけである。
言ってみれば、それをカントは「アプリオリ」と言ったわけだ。
なぜ、それがアプリオリなのかというと、もしもそれが「経験」によって辿り着けるなら、または、辿り着けることが分かっているなら、あとは、

  • 無限の時間

がたてば、人類はその「真実」に到達できる、ということを意味するわけだから、そもそも、それを「経験的」であると言うことができなかったからなのだ。
カントが問いたかったのは、もはやその構造において、決して人間には知りえない「何か」がもしもあるのだったら、私たちは、それに対して、端的に

  • 謙虚

であるべきだし、そうあることが合理的なんじゃないか、という疑いなわけであろう。
言ってみれば、ソクラテスも、カントも、そのことしか言っていないわけである。
しかし、こういった思想を馬鹿にできないわけである。科学は、「答え」を教えない。科学が行うのは、さまざまな「仮説」であって、これらが真実に変わることはない。未来永劫、仮説であって、それで必要十分なのが科学だ。私たちは、「見たいものを見るし、見たくないものを見ない」わけで、そうである限り、仮説が仮説でなくなることはない。そもそも、科学においては、「ある実験を行う」ということそのものが、「そこで発見されるもの」を、最初から制限している側面がある。つまり、その実験という行為を選んだ時点で、なにが「見える」のかは制限がされているわけで、それを超えたことが見えることはないわけだ。つまり、どんな発見も、その実験の「選択」によって制限されている。
カントの特徴は、言わば、「人間の尊厳」を前提とした政治学だ、と言っていいだろう。言わば、カントこそが「人権」思想を産み出した、と言えなくもないわけである。カントの実践理性批判は、今の、国連などで実現されている、今の世界中の国々で採用されている、

  • 人間の尊厳

の思想を用意した、最も大きな「哲学的成果」だと言ってもいいくらいだと考えている。そう考えると、今の、この地球上の、法によって保たれている、国際秩序は、

  • カントの思想

が生み出している、と考えられないこともないわけである。しかし、もしもそうだとすると、これを成立させた、そもそもの、カントが純粋理性批判や、実践理性批判で、彼が述べた

が、どこまで今の私たちがそれを受けいれるに耐えうるものなのかは、そんなに「自明ではない」わけであるから、どこか「危ない橋を渡っている」と言いたくなるのも分からなくはないわけだ。
例えば、こう考えてみよう。
なぜ、こういった、ソクラテスやカントが主張したような、「人間の理性の越権行為」「人間の理性の限界」といった考えが重要なのか、と問うてみると、そこに

  • 幸福

という言葉が見えてくるだろう。さて。もしも「科学」が発展して、

  • 誰かの幸福がなんなのかを、他人が分かるようになる

と考えてみよう。例えば、脳神経学者が、人の脳の伝播や血流を「測定」することで、「それ」が分かるようになる、と言うわけである。そして、それを「計測」する、と言い始めるわけだ。
しかし、である。もしも他人が、ある人の「幸福」がなんなのかを分かったとするなら、その世界は

であろう。つまり、全体主義だ。国家は、それによって、国民をいくらでも「操作」することができるようになる。なぜなら、「それ」さえ提供すれば、その人は「幸福」になるのだから、なんで「それ」を提供してくれる国家に逆らおうと思うだろうか?

社会心理学で「システム正当化理論」というものがあります。「男性に役職が多く、賃金が高い社会は自然だ」とか、「女性が子育てをするのが当然で、だから女性が仕事を辞めるのだ」とか、こうした男女のあり方を正しい結果なのだと正当化することによって、現状を維持してしまう方向に傾く心理を取り上げた理論です。現在の社会、経済、政治、全てのシステムに対して、これは間違っていない、正しいんだと、思い込んでしまう。このシステム正当化理論でいえば、現在不利な状況に置かれている人ほど、幸せに感じるために、現状の格差を認めてしまうという研究結果があります。
女性差別 わたしの視点③ 社会心理学の立場から~東洋大学教授・北村英哉さんに聞く~ - 記事 | NHK ハートネット

そもそも「幸せ」という言葉は、その人に「今の現状を受け入れさせる」という

  • 強制

の側面があるわけです。つまり、その人に「幸せ」と

  • 言わせる

ことの「政治性」が問われなければならない。つまりは、「幸せ」とは「状態」ではないのだから、

  • いくら科学的に分析しても、絶対に答えに辿り着かない

わけで、そのことを、ソクラテスは言っていたわけですね。しかし、人々はそれを受け入れなかったわけですね。絶対に、「なにが幸せか」の答えがあるはずだ、と

  • 科学者

は考えた。なぜなら、「科学は進歩する」からだ。はるか未来には、絶対的な真実にたどりつくと考えているのだから、そんな科学が答えられない問いがあるはずがない。よって、「絶対に科学は、何が幸せなのか」を、見つけられなければならない...。
もうお分かりだろう。カントは、こういった「人間の傲慢さ」に対して、警鐘を鳴らすことの方に比重を置いた哲学活動を行った、というわけで、そういう意味で、一部の「進歩派=隠れキリスト教徒」に、何百年にも渡る、陰湿な「いじめ」を受け続けている、と言うことができるのかもしれない...。