なぜ新型コロナが問題なのか?

新型コロナは、サーズやマーズというかなり急性の重症化をもたらす新興のコロナウイルスと親戚であり、特にサーズと近縁であるわけだが、こと、「コロナウイルス」、通称「風邪」と比較するなら、旧型コロナとも、遠い親戚である。
そうなってくると、この遠い近いは、相対的なものとなるわけで、どちらで議論しているのかを注意しないと分からなくなる。
ではなぜ今回、こんなに混乱しているのかといえば、親戚とは言いながら、「違う」からだ。つまり、

  • 大人でも、かなりの数が感染する

というところが、「新興ウイルス」と呼ばれている理由なのだ。一般に、「交差免疫」という考え方があって、子どもの頃に「似た」ウイルスにかかると、大人になっても、かかりにくくなる、という話だ。そう考えると、確かに、子どもの頃に比べると、大人になると、風邪にもならなくなったし、インフルエンザにもなりにくい(まあ、子どものいる家庭の方は、近くに感染者がいるわけで、時々はかかるのでしょうが)。しかし、今回の新型コロナはこれが有効でなかった。よって、高齢者に多くの被害が出ている。
そこで、今、ワクチンが注目されている。ワクチンによって、「疑似感染」を起こすことによって、「交差免疫」と同じような状態にできないか、と世界中でワクチン接種が行われている。これは、ある程度成功している、と言えるだろう。感染予防については完全ではないが、一定の効果はある。また、重症化予防はより大きいとされている。
世界中で問題になっているのは、

  • 今後、こういった「新興ウイルス」が流行したときの対処法として、今の方法はどこまで有効なのか?

であろう。
「新興ウイルス」の流行は、ある意味、今の人間社会のあり方を考えると、避けられないように思われる。どんどん、未開地を開拓し、未開生物と人間が接触し、それが人間に感染していく。しかも、その人間は、どんどんと世界中を移動する。
であるなら、方法は二つしかない:

  • 人間が移動を止める
  • ワクチンなどを使って、人間が感染に対する「耐性」をつける

問題は、この後者の方法が、どこまで有効なのか、であろう。もしも、この後者の方法が有効でないとすると、二つの未来の選択となる:

  • ノーガード戦法 ... みんなが今の人間社会の移動の自由などを手放せないなら、老人が死ぬのは「しょうがない」。だから、死ぬ人は「自己責任」。どんどんと、若者から、高齢者が感染させられ、「若者に老人が殺される」社会を「受け入れ」る、というわけだ。
  • 人間社会のルールを変更 ... みんなが今の人間社会の移動の自由などを「一定程度」あきらめる。海外旅行がしたくても、流行がひどいときは、国家によって規制されることを「受け入れ」る。

現在、私たちはどうしているかというと、

  • おそらくワクチン対策は有効だろうと考えて、こちらに希望をもっているが、ワクチンの開発などには時間がかかるから、「その間」については、人間社会のルールをΓ暫定的」に規制して、その短い間については、その分の社会の応分の負担を受け入れよう、という方向ですね。

つまり、このワクチン対策が、少なくとも一定程度は有効だろうと考えて、その有効度の範囲で、

  • 人権 ... 完全に守る
  • 移動の自由 ... ワクチンができるまでは、一定の制限を受け入れるが、ワクチンができたら「現状回復」される

の両方を、両立させる、という形になっている。
これが、今の社会の方向であるが、普通に考えて分かるように、これは、あくまでも

  • 人間社会側の「都合」

で、そうしているに過ぎない。今後もこれが有効なのかは分からない。もっと深刻なウイルスが現れて、こんなことを言ってられないことになるかもしれない。
しかし、もしもこれが通用しないとすると、上記でも検討したように、

  • 人権
  • 移動の自由

のどちらかを犠牲にしなければいけない、ということになる。しかし、このどちらも、現代社会の基幹を構成している原理なので、そう簡単には手放せない。
まあ、普通に考えると、後者の

  • 移動の自由

は、少し無理がある、という印象は受けなくもない。誰もが移動できるといって、みんなが南極に行って、そこの自然環境を破壊したら、氷もとけて、さまざまな問題が起きそうだし、すこし考えれば分かるように

  • やり過ぎ

と言われるレベルはあるんじゃないか、と思わなくはない。
しかし、これをどうしても手放したくない人の中には、一部の危険思想のもちぬしとして

  • 人権

を制限できないか、と考える連中が(植松聖と同じように)現れるわけだ。
障害者や老人は、どうせあと何年かで死ぬわけで、そのために、なぜ若者の「自由」が制限されなければならないのか、と。小林よしのりや、京大の宮沢などは、この方向でなんとかして

  • 合理的

な、国民を説得できるロジックを探して「言論活動」をしている、ということなのだろうが、少なくとも国民の大勢を説得する説得に成功するほどの内容は提示できていない(本人たちにしてみれば、自分の意見を聞いてくれないからだとか、大衆が馬鹿だからだ、とか考えているのだろうが)。
しかし、こういった事情は、現在の倫理学における、功利主義の到達点の壁と近いものを思わせる。彼らは、カントの「人間の尊厳」の思想に反対したわけであるが、しかし他方において、国際法も、各国の民主主義国の法律も、普通に読めば、カント主義なわけで、どこも、「功利主義」者が言うような「内容」を採用していない(つまり、カント主義を否定していない)。
まあ、そう考えると、小林よしのりや、京大の宮沢が、

であることは、彼らのモチベーションの大きなところになっていることが分かる。国家の利益のために、国民は犠牲になるべきだ、という主張の延長から、

  • 人権

の制限という話になるわけで、そのことは、小林よしのりの「天皇主義」とも関係してくるわけで、なぜ天皇の「尊厳」のために、国民を犠牲にしてはいけないのか、というレトリックになる。京大の宮沢の場合はそれが、

  • 未来に登場するウイルス側の事情

を考えるなら、そういった人間側の抵抗が「限界」があり、付け焼刃なものであって、「論理的じゃない」というのが、学者としての立場だ、と言いたいのだろう。
もちろんそれは、「思考」として考えている分には、他人に影響はないわけで勝手にやっていてくれ、となるわけだが、植松聖のように、実際の行動に移られると(つまり、政策判断に関与しようとされると)、さまざまな軋轢が、社会に発生する。
つい最近でも、山手線で、ノーマスクデモなるものが行われたそうだが、(こういった連中の多くは、新興宗教の信者などが多いのだろうが)いってみれば、こういった連中を、だれが「けしかけて」いるのか、といった「影響力」の部分で、彼らの社会的な「リスク」が問題になっていくのかもしれない...。
(まあ、実際に、ユーチューブなどでは、どんどん彼らの動画が削除されているわけで。言ってみれば、「わざと規約に反した動画をアップロードしている」わけだが、やりたければ、別の媒体でやればいいのに、または、ユーチューブを裁判で訴えればいい。やることやってない、っていう状況なんでしょうね...。)