機動戦士ガンダムについて考えるというとき、その場合、さまざまな観点がある、ということだけは共通認識なんだと思っている。その場合、ファースト・ガンダムについてだけ言っても、その、さまざまな観点があるということは合意できるわけで、その一つの整理として、安彦さんのように、ラディカルに過剰なものをそぎ落として、やってしまう、という観点もあるのかもしれないけど、多くの人の場合はそうはいかなくて、つまりは、
- 富野監督の「作家」としての芸術作品としての観点
は厳然として存在していて、そこにコミットメントし続けて、それ以降のガンダム作品につきあってきた人たちにとっての観点というのは、そんなに簡単に無視はできないのだと思う。
では、具体的にはそれはなんのことなんだ、ということになると思うけれど、とても一言では言えない。というのは、富野監督が監督として関わったガンダム作品は、近年まで、多数あるわけで、その一つ一つが、それはそれなりに彼の「芸術家」としての、なにかしらの観点を作品化したものである、と言うことができるからで、そうであるなら、それらを簡単に一言でまとめるなんて、とてもできるわけがないから、だ。
しかし、である。
これは、あくまでも「富野さん」を一人の作家として、それぞれの作品を、その作家の「ライフワーク」として眺める視点をとる限りそうならざるをえない、ということなわけで、別に、すべての視聴者がそういった視点で、ガンダム作品を見なければならない、ということを意味していない。
(そう言うと、富野信者は、まさに「信仰心」から、アンチ富野として、つまり、異端を邪教として審判する立場で、破門してくるわけだが、ここで私はそういったコミットメントの立場に、あえて逆らって考察するわけである。)
それぞれのガンダム作品が(芸術家の富野監督にとって)何を意図したものだったのかは、ここでは、どうでもいい。そうじゃなく、一つの観点をここに、投入して考えたいわけである。
まず、それをどういったアプローチで行うか? それを考えるのに、一つの作品整理のアプローチから始めざるをえない。
いわゆる「宇宙世紀シリーズ」ということでは、こうなる。ここで、ファーストとゼータは、大きな断絶がある。つまり、ゼータは「富野監督の芸術作家として、描こうとしたもの」があった、ということだ。それは、後半の
- 恋愛小説
を思わせるような、愛の発露とその成立不可能性のパラドックスをこれでもかと描こうとする、鬱々とした心理破滅であり、実際に、主人公のカミーユは最後に「狂人」となることで、なにかを示唆しようとした、という形になっている。
対して、ダブルゼータは、そういった大人向けというような、鬱アニメが、「否定」されたことによって、富野作品のガンダム「以前」の、さらに、低年齢というか、幼い子供向けのアニメとして
- やり直す
ことを「野心的」に行ったのだが、
- あまりにも不評
だったために、中盤くらいから、改めて、ゼータガンダムのテーマに戻っていったというか、もう一度、大人向けの作品に
- 方針転換
をしたんだけど、この転換があまりにも「無理矢理」だったから、まったく作品として、整合性がない、
- 失敗作
として終わってしまった、といった形になっている。
では、その後の、逆襲のシャアと閃光のハサウェイはどうかということになるんだけれど、これがまた、嗤っちゃうくらいに、ダブルゼータのテーマと関係がない。
逆襲のシャアがなんなのかといえば、これは一種の「テーマ小説」だ。富野監督が、当時思っていた、なんらかの「テーマ」を作品にする、ということにしか関心がなく、それと、それまでのファースト、ゼータ、ダブルゼータは関係がない。つまり、これはこれで、この作品でしか描けない、当時の富野さんにとっては
- 重大事
だったことが描かれているのだろうが、そのテーマは、まったく、それまでのファースト、ゼータ、ダブルゼータとは関係ない、という関係になっている。
このことは、閃光のハサウェイも同じで、この作品も、それまで以上に「鬱作品」となっているが、なぜこの作品が作られなけっばならなかったのかは、ファースト、ゼータ、ダブルゼータは関係ない。もはや、なにかの
- 関係ない
その時の、富野さんの、なんらかの「鬱的な関心」と関係してしか、その意図を描けない、という意味で、これまで続いた
が真の意味で終わった、と言っていい。
私はこうやって並べたときに、おそらく、富野監督なりに、宇宙世紀シリーズをファーストで完結させることなく続けた段階では、なにかを解決させたい
- テーマ
があったんだと思うんですね。それが、
だと思う。ファーストから、ゼータを始めたときに、このシリーズは、この「ニュータイプ論」に、なんらかの決着をつけなければならないんだ、といった野心をもっていたと思う。
ところが、オリジンを作った安彦さんは、この「ニュータイプ」という概念自体に懐疑的だったし、まったく、認めていなかった。
これに対し、生理的な嫌悪を示したのが、岡田斗司夫さんだった。彼は露骨に、そういった安彦さんを馬鹿にした態度を示した。そして、その延長で、いかに、安彦さんの解釈であるオリジンが、ファーストの本質を理解しない、愚劣な焼き直しであるかを、しつこいまでに述べて、安彦さんの努力を嘲笑し続けた。
しかし、大事なポイントは、そうやって安彦さんを馬鹿にした岡田が、具体的にどう、安彦さんの評価が自分の解釈より劣るのかを、示していない、というところにある。
岡田が今の段階で言っているのは、
- ファーストの最終回で、ホワイトベースの「みんな」が、ある種のニュータイプとしての能力に覚醒したことには、安彦解釈の、ニュータイプ論を「特定の能力」として語るものを超えた可能性があった
- 逆襲のシャアがそれ以降のアニメ界に与えたショックは、いわば、「私小説としてのアニメ」の前進性だった
ということに尽きるわけだが、どちらも、安彦さんにしてみれば、
- 関係ない
話にしか思えないわけでw、なんで岡田がこんなことを言っているのかといえば、それは岡田が「富野信者」としての信仰告白であり、その党派性を語っているだけのようにしか思えないわけだろう。
ようするに、こういった言説は、富野信者以外には、どうでもいいことなのだ!
まず、ファーストの最終回の「ニュータイプ」の定義にしても、こいつ、なにを言っているんだ、という感想しかない。というのは、ゼータ、ダブルゼータを見れば、こんなニュータイプ解釈は、まったく通用しないからだ。
明らかに、富野ニュータイプ論は、
という形で反復されている。つまり、富野がこの三作品で取り組んだ、ニュータイプ論とは、
のような、
- 能力開発研究所の<実験体>
にこそ、現れていたからだ(逆に言えば、岡田は富野のこういった方面の「努力」を無視して、勝手に自分が読みたい富野を読んでいるに過ぎない)。
ファーストのララアは、突然現れるわけだが、すでにその段階で彼女は、ジオン公国の中から、なんらかの秘密の「能力開発所」から、訓練をされ、現れた存在であることを示唆するような描かれ方をしている。そして、「そういう存在」としてのララアが、アムロと出会うことの、逆説的な意味が問われていた。
そして、このテーマは、ゼータガンダムにおいて、より分かりやすい形で反復される。カミーユは、フォウと出会い、お互い愛しあうわけだが、その結末は、悲劇を運命づけられている。フォウは
- 研究所の<実験体>
だった。つまり、その実験において「用済み」となれば、捨てられる運命だった。つまり、この二人の恋愛は成就しない。つまり、この
- 悲劇
は必然という形で描かれる。
このテーマの「反復」は、考えてみると奇妙な印象がある。なぜ富野は、アムロとララアの関係を、ゼータガンダムにおいても、カミーユとフォウという形で反復したのか? もちろん、この「問題」は、誰にも意識されないし、このカミーユとフォウの話は、ゼータ作品の中でも傑作として、ファンに意識されている。
実は、この問題は、ダブルゼータにおいても「反復」されている。
しかし、である。
このダブルゼータでの「反復」は、ある意味で、奇妙な結末を迎える。
そもそもダブルゼータは、上記で書いたように、歴史的ないきさつもあって、奇妙な運命を辿った。まず最初は、これは
- ギャク・アニメ
として始まった。ところが、18話くらいから、世論の不評を買ったことで、ゼータガンダム路線への「転向」を強いられた。このことによって、上記までの、「反復」は、もはや
- 喜劇
としてでしか成立しないものになっていった、と言っていいだろう。
ダブルゼータの主人公は、ジュードを代表として、
- 街のチンピラの若者たち
によって形成されている。この子供たちは、奇妙なことに、なんのトレーニングも受けていないのに、ガンダムに乗れる。そして、次々と大人たちを「殺し」ていく。この無敵のチンピラ集団は、一人として死なない。ただただ、回りの大人は、このチンピラの若者に殺されることで、物語は終わりを迎える。このチンピラたちは、言わば
- 無敵
である。さらに、ずっと回りの大人たちを「説教」している。大人は間違っていて、自分たちは正しい。そして、実際に、このチンピラが連戦連勝をするのだから、大人も逆らえない、というわけだ。
なにを見させられているのか、と思うかもしれない。
こういった文脈で現れるプルとプルツーは、上記と同じように、
- 研究所の<実験体>
として現れ、
- 悲劇的な死
を迎えるわけだが、もはやここには、アムロやカミーユが悩んだような、ある種の「恋愛」と生きることが区別できないような、ニュータイプの可能性を探るような、究極的な懊悩のようなものとは違ってくる。
ダブルゼータ第35話で、プルは、自らの戦闘的な側面だけを極大化させたクローンであるプルツーとの戦いで亡くなる。しかし、プルの登場は、第17話くらいまでさかのぼるわけで、それからずっと、ジュドーはプルと「つきあい」続ける場面が描かれ続けている。プルにとってジュドーは「お兄ちゃん」の位置付けで、つねに仲良しで、ここまで
- 濃密
な関係を描きながら、こんなにも「あっさり」と亡くなることは、驚きと共に、なんらかの
- 理不尽さ
を感じなくもない。プルの特徴はこの「幼さ」にある。つまり、ニュータイプは
- 幼形進化
を続けてきた! ところが、そのことは他方において、「幼児ポルノ」との関係において、子供向けアニメの
- 限界
にまで極限化されていた、ということを意味しているのかもしれない。
つまり、富野監督は自らの「ニュータイプ論」をさまざまな形で極めてきたわけだが、こういった商業アニメでこれ以降も描いていくことに、一つの
- 限界
に到達していたことに、気付かされた、と言うことができるだろう。
なぜダルブゼータがおもしろくないのか? それは、一方における、ジュドーたちの「チンピラとしての<逞しい>生命力」が、「大人を説教する子供」というパラドックスを生み出したのと同時に、プルが代表していたような、
- 研究所の<実験体>
としての「ニュータイプ」というものの極限の形態が、必然的に
- 幼児ポルノ
的なものを意味してしまうことを避けられないことであり、それを商業媒体で描き続けることの「限界」を思い知らされることになったわけだ。
プルという進化の「袋小路」は、必然的に、プルツーの存在の登場をもたらしたわけだが、対してプルツーは最後まで、プルの「亡霊」に苦しむ存在としてしか描かれなくなる。最終二話で、プルの亡霊に囚われながら、ジュドーを助ける中で、死ぬことになるプルツーは、もはや、一人の存在として描かれない。プルのコピーであるプルツーは、
- 二十話近い、ジュドーとプルとの濃密な話の描かれ方
の中で、もはや彼女の「個性」というものを、その短い話数の中で示すことは不可能であることを意味する。最後まで、プル「そのもの」として、
- プルがジュドーにとっての仲の良い兄弟
であったことを反復する形でしか、自らのアイデンティティを示せなかったとき、ここに、
- ニュータイプ論の終焉
が示されることは、もはや必然だったのではないだろうか...。