ドラクエ11の勇者はなぜ「過去」に行くのか?

ドラクエ11は、今までのドラクエの中でも評判がいい。それはそうと言っていいだろう。ただ、ドラク11は、幾つか、論争を呼んでいることは確かだ。
その中でも、いろいろと論争を呼んでいるのが、

  • 過去に遡る

ストーリー展開がある。これが、論争含みなのは、結局、勇者が「なぜ」過去に行くのかが、よく分からないからだ。もちろん、過去に行くか行かないかは、選択肢で選べる。しかし、選ばなければ、その後のストーリーを体験できないんだから、この選択は実質的には、選択になっていないのだ!
これは、どういうことなんだろう?

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ここで赤木さんが言っていることは、ようするに、「自分は過去に行きたいと思わなかった」のに、選択肢が過去に戻るしかなく、しょうがないので過去に行ったために、そこから後は、たんなる「タスクをこなす」だけの作業になってしまった、という不満を述べている。
近年のRPGは、主人公の行動に基本的に「自由」が与えられているものが多い。それは、プレーヤーの行動を縛ることへの違和感が大きく考えられてきたからだろう。そういったものに慣れたプレーヤーには、ドラクエのこういった制約が、なにか「時代遅れ」に感じる、ということなのだろう。
確かに考えてみると、過去に戻るというのは「蛇足」のように思われる。なぜなら、だとするなら、ここまで苦労して辿り着いた、さまざまな「経験」が、ひとまずは「消える」ということを意味しているからだ。
ルノーガの策略により、一回、世界は闇に包まれる。このとき、勇者たちメンバーを救ったのは、ベロニカだった。しかし、いずれにしろ、ベロニカ亡き後、残った勇者パーティのメンバーは、再集合して、ウルノーガを倒す。
うん。世界は平和になったね。
ところが、主人公は「過去」に旅立つ。なぜ?
大事なポイントは、ここでの過去に戻る行為は、ただたんに「主人公の勇者は、それを選べる」というオプションにおいて、用意されている、というだけなのだ。行かなくてもいい。行ってもいい。だとするなら、なにを目的として行くのか? ここが、この作品では答えられていない。
つまり、主人公の勇者が過去に行くというのは、

  • プレーヤーの「あなた」

が、それを選んだから行くことになった、というだけで、トートロジーなのだw なぜ主人公は過去に行くのかを、この作品は「描いて」いない。つまり、この作品内に、主人公が過去に行くことの「原因」が描かれていないのだw
これは、ドラクエ作品全てに言えるのだが、主人公の勇者は全員、一切の自己主張をしない。みんな寡黙で、基本的に、しゃべらない。というか、しゃべっているのかもしれないが、少なくとも、ストーリーの描かれる場面では、「言葉」で自己主張する場面が描かれない。
これは言わば、作品世界全体が強いている「制約」のようなものなのだが、このことが、こういった決定的に重要な場面で、大きな曖昧さをもたらしている、と思われるわけだ。
ここで、私なりの「仮説」を述べてみたい。
私がまともにやっているドラクエは、あと「ドラクエ8」くらいしかない。そのため、畢竟、比較するものは8になるわけだが、この8は、ある、奇妙なことが起きている。
まず、最初のPS2版では、エンディングは、普通のエンディングと、「トゥルー・エンド」の二段階となっているが、この「トゥルー・エンド」は一つしかなかった。つまり、ストーリーとしては、無難な作りになっていた。
ところが、である。
その後、ニンテンドー3DS版というのが発売された。こちらは、基本的なストーリーは、PS2版と同じなのだが、やりこみ要素が追加されるなど、さまざまな修正が行われた。
その中の一つで、上記のエンディングの変更がある。3DS版も、普通のエンディングと、「トゥルー・エンド」の二段階構成となっているが、この「トゥルー・エンド」が

  • 幾つかのヴァージョン

をもったものとなってしまった。つまり、プレーヤーがプレー中で「選んだ」、ある選択によって、このどれかのバージョンに分かれる形になった。
その一つに、ゼシカ・エンドがある。つまり、主人公の勇者が、幼馴染のミーティア姫と結婚しないで、勇者パーティの紅一点のゼシカと結ばれる、という結末である。
このバージョンがびっくり仰天なのは、明らかに、

  • そう匂わせる場面が、まずもって一つもない

のに、なぜか、この結末になっちゃった、ということなのだ!
言いたい意味が分かるだろうか? 言うまでもなく、PS2版は、そもそも、この可能性を一切想定していない。だから、そうなる可能性をほのめかすような場面は一つもない。当然、3DS版も、PS2版のマイナーチェンジなのだから、そういった場面はないわけ。
じゃあ、なんでこんなことになっちゃったんだろう?
考えられる理由は一つしかない。「ファンが求めた」から。いや、そういう意味なら、当然なんだよねw なにを言っているんだと思うかもしれない。言っていることが矛盾しているじゃないか、と。
違うんだよ。これは、ドラクエ8をやったことがある人なら、すぐに伝わることなわけ。まず、幼馴染のミーティア姫は、作品の最初から最後まで、主人公と一緒に行動する。ただし、

  • (魔術師によって姿を変えられた)馬の姿

で、だ。対して、ゼシカは作品の最初で、勇者のパーティに加わって、それから最後まで行動を一緒にするわけだが、まず、見た目が絶世の美女だ。プロポーションが抜群で、しかも、勝気な性格で、本当に生き生きと描かれている。しかも、主人公と一緒に、いつも「戦って」くれる、最高のパートナーなわけで、お前が男なら惚れないと考える方がおかしいわけだw
ようするに、だ。
明らかに、8のストーリーを作っている人たちは、「間違った」ストーリーにしてしまったわけだ。あまりにもゼシカが魅力的な登場人物にしてしまったために、どんなに作品として、

  • 不自然

だったとしても、主人公とゼシカが結ばれるエンディングを用意しないわけにいかなくなってしまった、というわけだw
さて。
この「事実」を、あなたなら、どう考えるだろう? ドラクエは、言ってしまえば、こういった「堕落」を8で抱えてしまった。これは、正統的な構成からは逸脱する、言わば、「脱線」だ。しかし、一度でもこういったルートを認めてしまったなら、それは一度だけ、というわけにはいかなくなるんじゃないか?
そこで、11である。
なぜ、主人公が過去に戻るルートを「正規ルート」として用意することになったのか? それは、なぜ主人公は過去に戻る選択を選ぶことになるのかを、

  • いったん、冷静になって

考えてみれば分かるんじゃないか。
つまり、8でゼシカ・エンドが追加されたように、どうしても

  • ベロニカを死なせたくない

と思ったから、主人公の勇者は過去に戻るんだ、と言いたくなるわけだ。つまり、ベロニカが死ぬことになるこの結末に

  • 後悔

があると、このストーリーをここまで進めてきたプレーヤーが「思っている」ことが

  • 前提

になった、言わば

  • メタ

な観点からの制作サイドによる、プレーヤーの「誘導」になっているわけである。
これが納得がいくかいかないかは、この事態をあなたが「どれだけ」深刻に考えているのか、に関係している。新海誠の「天気の子」というアニメがあったが、ここで主人公は、ヒロインが人身御供で、自分の死と引き換えに東京が洪水で滅びるのをまぬがれるという選択を「否定」する。東京の人が何人死のうが、それを、彼女の「自己犠牲」によって実現しようという考え自体が受け入れられない、と言うわけである。つまり、これは強烈な「恋愛アニメ」だったわけだ。好きな人が死んでほしくない。たとえ、東京が滅びても。この考えは、私たちの日本社会が、過去から連綿と続けてきた

  • 人身御供

の「文化」を明確に否定する、強烈なメッセージがあった。
そういった「構造」において、ベロニカの死は、まったく、同じ形をしている。ベロニカとセーニャの姉妹は作品のかなり最初で、勇者は知り合って、それ以降、一緒に行動するようになる。しかし、この二人の姉妹が産まれた村は、ある「特殊」な使命を帯びて存在していた、ということが後で分かる。それは、

  • いずれ現れる「勇者」をサポートするため

と。よって、この二人の姉妹は、自分たちが幼い頃から言い聞かされて、それを使命として育てられた「勇者をお守りする」という役割を、口では言わないが、ずっと胸に抱えて行動していた。
よって、ウルノーガの策略にはまって、勇者パーティが全滅しそうになったとき、ベロニカが自己犠牲によって、自分の死と引き換えに、全員を一時的に逃がしたことは、

  • ずっと昔から「決意」していた

行動だったのだ! だから、妹のセーニャは少し泣いた後は、これを当然の「運命」として受け入れて、「次は私の番」と、気丈にも、一切振り返ることなく、自らの役目を果たしていく。
ちょっと考えてみよう。
ベロニカの死は、確かに、主人公パーティのみんなにとって、つらい出来事だった。しかし、だからといって、この「運命」に逆らおうなんて思っている人は、一人もいないのだ。ただし、

  • プレーヤー

という唯一の「例外」を除いて。
主人公の勇者の視点からは、こういったベロニカとセーニャの「決意」はベロニカの死が分かるまで、隠されている。つまり、二人は旅の途中でこの問題について何度も話し合っていたはずなのだが、とにかく、この事実は、主人公には徹底的に知られないまま、ストーリーは進んでいる。考えてみてほしい。もしも、あなたが主人公の勇者だったら、こんなことを決意している二人を連れて旅をしただろうか? 絶対に、二人がこの決意を止めるまで、一歩も旅をしなかったんじゃないか。
つまり、ベロニカの自己犠牲には、それと対立的に、「自分に無断で」そういった決意をしていたということへの、どうしようもなく許せない怒りが併存するわけである。この怒りは、ベロニカやセーニャが悪いというより(彼女たち二人は、それを自明とした使命を教えこまれて生きてきたわけで、その運命にいい悪いと言っても意味はないのだろう)主人公の勇者は違うわけである。お前は、ベロニカやセーニャを死なせないようにできた。できたのに、この世界のことを深く考えることもなく、流されるまま生きてきて、こういう深刻な悲劇となってしまって、どうしてそれを後悔せずにいられるのか、というわけなんですね。
11での過去へ戻る行為は、8での3DS版でゼシカ・エンドが追加されたのと、まったく同じ構造だ。つまり、過去遡行の「トゥルー・エンディング」の用意は、3DS版でゼシカ・エンドを、

  • 初回出荷版で事前にビルトイン

したフォーマットだ、ということなのだ。これは、制作サイドが、あらかじめ、こういった要望が来ることを想定して、最初から組み込んだ、という形になっている。
つまり、

  • メタ

な意味において、ドラクエという作品は、8から11を経たことによって、こういったメタ的な「文脈」をもはや含まずには成立させることができない作品へと「進化」してしまった、ということになるだろう...。