「<私>の哲学」への疑問

私が、永井均さんの言う「<私>の哲学」に疑問をもったのは、そもそも、なにが理由だったか? おそらく、その最初は、永井先生柄谷行人と自分との違いについて語っていたところくらいからだったんじゃないか、と思っている。それくらいから、私はあまり、永井先生の本を

  • まとも

に読まなくなった。実際、彼以外に彼と同じような議論をしている人はいないし、そもそも、海外、特に欧米のメインストリームに、たんに知られていないというより、

  • まったく相手にされていない

といったところに、本気で彼の主張を「まとも」に扱う意味があるのかを疑ってきたわけだ。
そのことは、例えば、この話は

  • 確率論における「条件付確率」

の話として、かなり多くが整理できるんじゃないのか、と思ったことと関係している。

魔理沙:ある星で恐しい実験が行われている。まず、神がアダムとイブとして、その星に10人の人間を創造する。この星の住民の結末は、神の匙加減で決まる。神が2つのサイコロを振り6・6が出たら、天変地異を起こして、その10人を全滅させて実験終了。出目が6・6以外であれば、その10人は天寿を全うし、次世代の子供を産んでもらう。あまり現実的ではないが、簡単にするために、ここでは第2世代として100人が生まれるとする。その100人に対して、再度神はサイコロを振って、その星の結末を決める。
霊夢:じゃあもし2世代目が生き残れたら、次の3世代目は1000人になるってこと?
魔理沙:その通り。同じ要領でその星のn世代目には10のn乗人がいることにしよう。6・6が出れば、その世代は全員息絶えて終了。ただしそれ以外の世代は無事だ。そしてこの実験は6・6が出るまで続く。
霊夢:つまりは、サイコロで6・6が出るまでは存続できる星に、徐々に住民が増えていくのね。
魔理沙:ではここで霊夢に問題だ。ある日、霊夢が目を覚ますと、この星の住民として生まれ変わったとする。この時、転生した霊夢が生き残れる可能性は、一体いくらだろうか?
霊夢:んー、何世代目だろうが、結局はサイコロの目で運命が決まるのよね? じゃあ全滅するのはサイコロで6・6が出た時だから、私たちの世代が絶滅するのは1/36で約3%。逆に言えば97%で生き残れるんじゃない?
魔理沙:正解だ。星を見渡して人数を数え、自分たちが何世代目の人類かを見極める必要はない。何世代目であろうが、全滅する確率はたった3%しかないぜ。
霊夢:ほとんどの世代が生き残るわね。きっとその星は繁栄するでしょうね。
魔理沙:では実験2にいこう。先程、神は次の世代が生まれるたびにサイコロを振っていた。これを面倒だと思った神は、今度はまとめて最初にサイコロを振っておこうと思い立った。つまり、今度は最初の人類を創造する前にまとめてサイコロを振って、6・6が出るまで記録しておいたとする。例えば、1回目は1・5。2回目は3・2...という風にな。あとは先程の実験と同様に、6・6の回になるまで人類を繁殖させ、6・6の回になったら、その世代を全滅させる。さて、この場合、この星に転生した霊夢が生き残れる可能性はいくらだろうか。
霊夢:これもさっきと同じく、結局はサイコロで6・6が出るかどうかなんだから、全滅する可能性は1/36でしょう? サイコロを一回一回振っているか、最初いまとめて振っているかだけの違いなんだから、結局は同じ確率じゃないの?
魔理沙:では正解を発表しよう。今回の実験では、霊夢の世代が絶滅する可能性は、90%以上だ。霊夢がこの星で生き残れる可能性は、10%以下しかない。
霊夢:えっ、急に生き残れる確率が下がったわ!? 一体なぜ?
魔理沙:よく考えてみてくれ。例えばサイコロの3回目で6・6が出たなら、1世代目の10人、2世代目の100人が生き残り、3世代目の1000人は絶滅する。まとめると、星の住民1110人中、1000人は突然の終末を迎えることになる。これが5回目であれば111110人中、100000人が絶滅だ。つまりこの星の住民の90%以上は絶滅するんだ。とすれば霊夢が転生する世代は、人数比的に多数派である最後の世代に割り振られる可能性が高く、霊夢が生き残れる可能性は絶望的になる。
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この動画では「黙示録のパラドックス」と言っているが、ポイントは

  • 自分を考慮しているかしていないか

だというのが分かるだろう。前者は「今ここに、自分がいる」ことが前提になって、「その」絶滅の確率という形で議論がされている。
ところが、後者はそうじゃない。そうじゃなく、そうやって繰り返されるサイコロのどこかで出目が6・6に「なった」上で、じゃあ、その中のどこかに自分が「転生した」として、その自分は「絶滅」の側なのかどうなのか、となっている。つまり、後者は「条件付確率」であり、ここでは、最後まで6・6が出ない場合や、絶滅までの間に転生しなかった場合は考慮されていない。
しかし、そう言うと、いや、前者だって、ずっとサイコロを振り続けるんだから、だったら、いつかは6・6が出るのだから、同じ確率にならないのはおかしいんじゃないか、と思うかもしれない(今、議論の枠組みとしては、「転生する」と言っているんだから、つまり、これを無限回やれば、どこかでは転生しているわけだろう)。
しかし、そうならない。それは、前者は

  • 今、自分が「転生」している

という、今の自分が前提になっているからだ。まず、今自分は「転生している」という状態「に対する」確率が計算されている。つまり、今ここで、自分が「転生している」という状態を前提にして、確率が考えられている。
この二つの確率がなぜ、ここまで違うのか? それは、私たちが普段、よく口にする「主観的」「客観的」といった態度の正当性を疑わせるわけである。多くの場合、私たちは

  • あらゆる森羅万象は「客観的」に扱うことができる

と考えているし、倫理的には、そうでなければならない、と考えている。しかし、ひとたび「自分を前提」にしたとき、そもそも、さまざまな「確率」は変わっている。つまり、客観的であることが、その問題の本当の「答え」であるとは限らない。むしろ、主観的である方が、その答えとしての「(ある種の)客観性」を与えることもある。
しかし、言うまでもないが、こういった「レベル」の分類は、上記の文脈で言えば、むしろ、柄谷行人側のカテゴリーだと言える。永井の言っていることは、

  • こういった「差異」のさらに先

にあるような、「あまりにも自明なまでの」自分という存在の、他との違い、ということを言っているわけだ。しかし、そういった永井の議論は、そうであるがゆえに、ここで私がとりあげた「レベル」の

  • 差異

を、逆に「議論できなく」させてしまっている。つまり、こういった差異は、永井の議論の中では

  • 議論できない(まったく、本質ではないんだから、逆にそんな、どうでもいいことを考えちゃダメだ、とタブー視される)

形になってしまっている、という意味で、私にはどこか、永井の議論の「狭量さ」(世の中のさまざまな問題に対して、それぞれの興味深さに応じて、関心を向けうる形になっていない、という意味で)であり、瑕疵に思えたわけだ...。