日本の政治に絶望している人たちへ

今回の選挙があって思ったのは、あまりになにかに一喜一憂するのは違う、ということだ。もっと私たちは、なにか一つに固執すべきじゃない。なぜなら、私たちはなにか一つに偏執して人生を捧げるには、そこまでの責任を引き受けられるほど大きな存在じゃないからだ。私たち一人一人のキャパシティは限られている。そうである限り、それを超えて存在しようとすることには限界がある。
私たちはもっと無責任であるべきだ。しかしそれは、なにもかもをあきらめるということじゃない。つまり、たとえそうだったとしても、「世の中はうまくいく」という「信」が私たちを前に進める。これはある種の「未来への投企」だ。ある意味で、カント的だとも言えるだろう。未来は、私たちの「信」によって成立するのであって、それ以上でもそれ以下でもない。未来は

  • 不可能性

を私たちが引き受けながら、それでも前に進むことによって見えてくるなにかでしかない。
そもそも、日本の「野党」と呼ばれてきた存在、つまり、民主党であり、日本維新の会とは、

  • 自民党に入りたかったけど入れなかった「人民党二軍」

であることを忘れてはならない。そのことと、連合の吉野とかいう会長が、自民党に媚を売る女であることは、切っても切れない関係にあることを理解しなければならない。つまり、常に日本の労働運動は自民党と結託した「経営者」からの

によって、内部から瓦解させられてきた。
そういった情況を考えたとき、私は前回のサッカー界の話が分かりやすいように思われる。
日本にさまざまな利害関係をもった人たちがいて、それぞれが、さまざまな政治的行動を行っているとして、たとえそうだったとしても、

  • サッカー全体がファンタジスタフリーキックの名手が未来に残っていけるようなルールである方が、サッカーが「よく」「おもしろい」と思う人が多い限り、そちらの方向を目指すべき

というのと同じように、

  • この日本全体のシステムを考えたときに、どういったシステムであった方がいい

ということは、俯瞰した視線から考えられるはずなのだ。
そうしたときに、「どういった政治制度に本来なら、なるべきなのか」といったことが言えるようになり、そういった方向から変革の可能性が見えてくる...。

追記:
こういったことが、私がSNSに批判的であることと関係している。ツイッターは完全に罵詈雑言のゴミの掃き溜めになっている。特に、リベラルと呼ばれるような「良識的」な人たち、立憲民主党共産党やれいわ新撰組の議員は、毎日のように、

と思われる連中から、罵詈雑言を浴びせられているわけで、そんな状態で精神が健康でいられるわけがない。