改めて楠木ともりの優木せつ菜役引退について

表題と関係ない話だが、VTuberがAPEXという、fpsのゲームをして対戦する「V最協決定戦」が少し前にあったが、私は今回、一切見ていない。まあ、前回見たのは、港あくあが出場したからで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
そして、なぜ今回、彼女は出場できなかったのかを考えると、彼女自身の問題が当然あるとして(忙しいなど)、それ以外の、いろいろな不幸な巡り合わせがあったんだと思う。
ただ、V最協という大会が、それほど、魅力的な大会なのかというのは疑問だ。ゲームの形式として、時間経過にともなって、戦闘スペースが狭まっていき、そこで大量のチームが残ったとき、もはや運ゲーというか、そこで何を見せるのか(どういったテクニックを楽しむのか)が不明だったりする。
あと、そもそものチーム分けが、未経験者が参加しやすいように、チームポイント分けにしているところが、不快感をつのらせる。つまり、主催側に不当な高得点をつけられると、チーム組みが制限される。そのため、普段からAPEXをやって、スキルを磨くと、自分がやりたい人とチームが組めなくなる(同じように、試合開始時のポジションのドラフトで、ほとんど試合結果が決定しているところがある)。
今回の大会の特徴は、ホロスターズが大量に参加していることだ。つまり、ホロライブという会社に所属している、男性のVTuberたち。彼らは、会社の方針で、ほとんど、女性VTuberと交流がない。ホロライブという会社として、ホロスターズを人気にしたいという会社方針はあるわけだ。それで、さまざまな形で名前を売ろうとしている。しかし、そのために、湊あくあが会社から、犠牲にされた形になっている。彼女を、この大会に出場させることへの、会社のモチベーションが低い。それより、ホロスターズの名前を売る場所として利用しようとするモチベの方が高いわけだ。しかし、視聴者にとって、それは、この会社に求めていたことなんだろうか?
私は、V最協の主催者が、湊あくあを不当なまでに、ポイントを高くして、この大会に参加しにくくさせたことに今でも、不信感をもっている。つまり、主催者側は、彼女の「排除」を最初から意図して行動していた。だったら、湊あくあは、この大会に参加しない方がいい。ホロライブも主催者も両方、彼女の敵なら、きっぱりと関係を切った方がいい。敵とわざわざ、仲良くする必要はない。ホロライブという会社は、湊あくあに、APEXをさせたくない。もっと違う方面。つまり、「アイドル活動」で、企業から案件をもってくる活動の方に、うまみを感じている。しかし、視聴者は彼女に何を求めているのかは、明らかに、違っているように思われる。ホロライブという会社としては、彼女のアイドルとしての「寿命」が続く限りは、それでお金を稼ぎたいわけだ。つまり、

  • 使い棄て

さんざん旨みを吸って、ポイするってわけ。だから、彼女の本当にやりたいことによりそう人が回りにいない...。
さて。
スクスタのサ終が、突然、発表されたことで、界隈では動揺が走っている。
そうは言っても、私はスクスタを「一切やってなかった」ので、まったく変わらない日常なのだが。
じゃあ、私がなぜやらなかったのかということでは、おそらく、第20章問題で、すっかり冷めてしまった、というのがあったかもしれない。
ただ、ここで考えてみたいことが、楠木ともりの引退についてだった。今回、彼女はスクスタの6月までの間は、彼女が優木せつ菜役をやる、というのだ。そして、その6月までの間に、スクスタ内で発表される新曲は、楠木ともりが歌っている、と発表されている。
楠木ともりの引退の件は以前にも、このブログで書いているわけで、あらためて、そこに付け加えたいことがあるわけじゃない。私はそもそも、この決定に違和感をもっているし、彼女がずっと続けるで、なんの問題もないと思っている。そもそも、

の世界的な方向性に逆行しているという意味で、不快感がある。
なぜ、このラブライブシリーズがここまで成功してきたのかを考えると、明らかに、無印の「成功」がある。無印は、3年生の卒業に伴って、穂乃果がミューズの「解散」を決定するところで、最終回を迎える。言わば、この青春の「はかなさ」への、絶対的な肯定があった。
対して、アクアは、3年生の卒業において、3年生は残ることになる2年生、1年生に「今後もアクアを続けてほしい」と言い残して卒業していく。つまり、結論が逆になっている。なぜそうしたのかを考えると、ラブライブシリーズとしての「大人の事情」があったんじゃないかと邪推したくなる。
結局、アクアは3年が卒業した後も、アクアを在校生で続けていくということを推察される形にしたといっても、その内実を描いていない。つまり、3年が卒業した後のアクアの物語が描かれていない。
そもそも、アクアといって、3年生がいないアクアをイメージしている人は一人もいない。いるわけがない。だったら、なぜ、アクアはミューズ型で終えることができなかったのかは、かなり違和感がある。
今回、楠木ともりが役を下りるというとき、いや、一人が辞めるんだったら、みんなが辞めたらいいんじゃないのかと思うことは自然だと思っている。つまり、

  • 違うもの

になればいい。彼女がもういないのだ。だったら、それはもはや違うものなんじゃないか。それでいいんじゃないか。そして、こういった姿勢を「支持」するエンディングを迎えたのが、ミューズだった。ミューズは今でも、ラブライブシリーズを決定的にする人気があり、そのベースの上にこのシリーズがある。だとするなら、すべてのベースは、ここから考えるべきだと思わずにいられない。
なぜ、楠木ともりは辞めなければならないのか? 彼女が病気だからか? もしもそうなら、それは、そもそものラブライブシリーズが伝えようとしているメッセージと矛盾していないか?
特に、優木せつ菜が物語の初期において大きな役割を演じていただけに、こういった選択は、そもそものメディアミックスの事業展開と相性が悪い印象がある。彼女は言わば、主役級の存在として現れた。それを変えるというのは、なにか、根本的なところで

  • 違うものになる

という印象を与えるわけで、それに対する説明責任があったんじゃないのか、という気持ちをぬぐえない。
私は、今話題にされている理由なら、楠木ともりを継続すべきだったと思う。いや、説得できたんじゃないかと思っている。もちろん、そうなったとき、虹ガクのライブ形態は変わらざるをえない。でも、それでよかったんじゃないか。
うがった見方をすれば、スクスタの3DCGでの優木せつ菜の「パフォーマンス」が、彼女にプレッシャーを与えたというなら、スクスタの終焉は必然だったように思える。そもそも私は、あの、3DCGのライブシーンに、いい印象をもっていなかった。ライブシーンを3DCGで描くというのは、無印の頃のアニメのOPからあった。しかし、興味深いことに、ブルーレイ段階で、OPのライブシーンの3DCGは手書きに変えられた、という。
いずれにしろ、こういった人工的な動作は、その

において、必然的に矛盾をもたらす。アニメが、VTuberに押されてきたのも、VTuberの3Dライブの方が「自然」と感じるからであり、今の、蓮ノ空が、完全にVTuber形式を採用しているのも、ラブライブシリーズの、そちらへの全面的な移行を示唆しているわけであり、「3DCGによるライブ」への偏重は、その役割を終えようとしているんだと思っている(これが、なぜ、スクスタが終わらなければならなかったのかの理由だ)。
今、蓮ノ空のアプリの先行版がでているが、あきらかに、こちらの3Dで動くストーリーの質がいい。目元を中心とした表情もいいし、口元も自然だし、これを見せられると、もはや、こちらが中心に、ラブライブシリーズは展開されていくだろう、というのがよく分かる。
蓮ノ空のアプリの先行版で公開されているストーリーは、私たちが今まで見てきた、スマホでのストーリーだ。つまり、非常にゆっくりとした時間の中で、まったりとストーリーが進み、各登場人物の心情を、これでもかと、モノローグさせる。なんというか、蓮ノ空は、まったく新しく、ラブライブをリメイクしていて、しかも、それに成功しているという印象を受ける。
ところが、こうやってラブライブシリーズを見ていったときに、明らかに、ニジガクは一つのエポックメーキングだったんだと思っている。それは、

  • ソロ

を重視したことだ。ソロアイドルを描こうとした。そして、その「代表」が優木せつ菜だった。そういった意味では、彼女をもっと掘り下げる必要があったんだと思う。しかし、ニジガクは同好会メンバーを大量に増やすことによって、彼女の掘り下げが限定的になってしまった。それと同時に、全メンバーによる楽曲の割合も一定程度は加えざるをえなくなった。
こういったことによって、もともとテーマとしてあった「ソロアイドル」について、深く掘り下げられる形にならなかった。このテーマがぼやけてしまった。
なんというかな。虹ガクのソロアイドルというテーマに対して、、スーパースターは完全にこれと対立した形になっている。つまり、メンバー全員でのダンスが、かなり作り込まれていて、それが本格的なのが特徴となっている。しかし、そもそもこの「個性」の対立がなんなのかは、あまり説明されていない。つまり、ラブライブシリーズ全体として、なにが伝えたいのかが分かりにくいことになっていったんじゃないか。なぜ、虹ガクはソロアイドルというテーマを訴えたのか。なぜ、スーパースターは、そのテーマを一切無視して、無印タイプに戻ってしまったのか。
スーパースターは、もう一つ特徴があって、それは3年間を描いていることだ。つまり、新入生の加入を描いた。これは、おそらく一つの可能性として描かれなければならなかったのだろうが、それによって、実は、大きな批判がファンの間で起きていた。というのは、それまでのシリーズでは、基本的にメンバーの増減が描かれることがなかったからだ。スーパースターの一期を見ていた人は、そのまま、二期も三期も、このメンバーでやると思っていた部分がある。つまり「外部」から、入るということは、それまでのメンバーの結束が濃密に描かれていればいるほど、異分子の血を入れることになるわけで、そのチームを応援していたことへの「同一性」が難しくなるからだ。
この批判は当然だったはずだが、なぜか、スーパスターの制作陣は、ここを軽視した。おそらく、スーパスター2期に対する、あれだけの批判は、この一点を起点にして始まっていたんだと思っている。つまり、これは、私たちが求めている「ラブライブシリーズじゃない」という感覚が強く広がった。そういった視点から見直したときに、さまざまな矛盾点であり、違和感が気になりだしたわけだ。
そして今回の3期だが、新入生はウィーン・マルガレーテとオニナッツの妹という

  • 今までの関係者

しか入れなくなっている(ウィーン・マルガレーテは二期であれだけ、フラグを立てまくったんだから、いい加減、入れざるをえないかといった感情は、ファンの間でも考えざるをえないわけだw)。まあ、あと一期で終わるわけで、ここで大量に入れられなかったというのがあるのだろうが、もしもそうなら、なんで二期であんなに加入させたのかは疑問だよな。あれだけの人数にするんだったら、二期で入れるんじゃなくて、一期の段階で、これくらいの人数にすべきだった。
そう言うと、「学年のバランスが悪くなる」とか言う人がいるかもしれないが、そもそも、これまでのラブライブシリーズに登場したスクールアイドルグループで、そういった新入生による「メンバー増加」を描いていないわけ(それは、他校のスクールアイドルグループでも同じw)。そしてそれは、当然なわけで、だったら

  • 別のグループ

を名乗って、独立して活動をすればいいだけでしょ。
(そういう意味で、スーパースターは一貫して「混乱」している印象を受ける。極端な、澁谷かのんだけを特別視するストーリー展開にしているのも、ちょっと納得できない謎だ。ほんとに、なにがしたいのか分からない不信感をもたれるようなストーリーが多すぎるのがスーパースターの今までの特徴で、いずれにしろ、3期が作られることは発表されているわけだから、その内容を待つしかないわけだが。)
そういった混乱の中、次に提示されたのが、蓮ノ空だったわけだが、このラブライブシリーズは、完全に舞台をこちらのステージにメインを移そうとしているのが、その力の入れようから分かる。
スーパースターは、いわば、それまでのラブライブシリーズの「総括」として作られなければならなかった、といった性質のものだろう。そして、そういった過去から自由になったことで、蓮ノ空は、それまでと、まったく違ったものを見せようとしている。
私は別に、虹ガクでの優木せつ菜の声優交代に批判的なだけで、それ以外に、いろいろな納得のいく方法はあった、という立場だ。楠木ともりが辞めるなら、優木せつ菜も、同好会を辞めて、作品から去り、林鼓子

  • 別の新キャラ

として入ってきてもよかった。楠木ともりが残った上で、彼女が舞台で怪我をして、舞台で踊らない「ソロシンガー」として、独立して活動していく、というストーリーにしてもよかった。結局、私が嫌だったのは、こうやって都合よく、声優を

  • メディアミックス

という形で、同一視して使ってきておいて、本人の避けられない問題を理由にして、止めさせるくせに、また、別の人をブッキングして

  • 同じビジネスモデル

が通用する考えるという、ファンをなめくさった、運営の態度が許せないだけなわけだ。違う人なんだから、違うキャラなわけで、それを

  • 同じ

ように「愛せ」って、ファンをなんだと思っているんだろう、という不快感が、(バンドリのロゼリアでのメンバー交代から始まって)ずっと続いていたことに、前から思っていた持論を繰り返させてもらっているだけなわけだ...。