陰キャと「徳」

ホロライブの湊あくあが一人で外食もできないとか、兎田ぺこらが始めて話す人との会話が緊張するといった、

の特徴は、そもそもこの「陰キャ」「陽キャ」といったカテゴリーが、比較的最近になって言われるようになったこともあり、多くの混乱をもたらしているように思われる。
例えば、湊あくあのAPEXについては、少し前に分析したわけだが、ここで

  • 陽キャ:夏色まつり、常闇トワ、星街すいせい

と比べたとき、彼女たちはそもそも、女ともだちも、あまつさえ、男ともだちでさえ、多いわけだ。まあ、それが、社会人としての「常識」だと言ってもいい。つまり、

  • 男慣れ

している。オフでも、そういった男との交流は頻繁なのだろう。つまり、陽キャの特徴は、基本的に

  • オレがオレが

の奴らであって、「自分が輝く」こと、「自分が幸せになる」ことにしか興味がない。まあ、それは、この三人がしゃべっているのを見れば自明だろう。つまり、「自己中心的」なのだ。
しかし、である。
それは、端的に「悪い」ことだ、という意味で私はここで、言いたいわけではない。というのは、それは「陽キャ」の

  • 作法

としては、どっちかというと「常識」的な部類に入るからだ。陽キャとは「そういうもの」なのであって、そうでなかったら、陽キャと言われない。つまり、「定義」だ。
しかし、もしもそうだとすると、ある疑問が湧いてくる。それは、

  • 陰キャは「自己中心的じゃない」のか?

という仮説だ。
これは、直感的には私たちの認識に反している。そもそも、内に閉じ込もっている連中「こそ」、他人に興味がなく、自分のことしか考えていない、と思われるからだ。
これは、半分は正しくて、半分は間違っている。
例えば、論語を考えてみたい。この論語の登場人物である孔子が、もしも、ホロライブの湊あくあや、ぼっち・ざ・ろっくの、ぼっちちゃんや、虹ガクのりなりーを見たら、おそらく孔子は彼女たちを

  • 徳がある

と言ったんじゃないか、と思うわけであるw
つまり、論語を読むと、<むしろ>陰キャであることが

  • 有徳者

と言っているように聞こえるわけである(そういった個所は、巧言令色鮮仁など、数えあげたら、きりがないと言えるだろうw)。
陰キャがなぜ、陰キャムーブをするのか? それは、彼女たちが「相手のことを考えて」迷惑をかけたくないから行っている、と聞こえる。対して、陽キャは、自分が相手に、「邪魔」と思われることを、なんとも思っていない。そもそも、陽キャ

  • 自分の快楽

のことしか考えていないから、自分の行動で他人が「困っている」ということを「大変なこと」と考えない。
ここで、アニメ「虹ガク」の一期を思い出してみたい。ここで、りなりーは愛ちゃんとペアのように描かれている。しかし、愛ちゃんは明らかに「陽キャ」であるのに対して、りなりーは「陰キャ」として描写される。この二人の関係を見ていると、特に印象に残るのが

  • 愛ちゃんの「人格者」としての優秀さ

だ。りなりーが、同好会に入れたのも、愛ちゃんがいたからであっただろうし、りなりーがりなりーらしく、今、いられることには、明らかに、愛ちゃんの絶対的な存在がある。
そういう意味で、アニメ一期について、私はいい印象をもっている。しかし、他方において、アニメ「虹ガク」はその後、りなりーと愛ちゃんの「関係」を深くほりさげようとしなくなる。つまり、りなりーにとって愛ちゃんは

  • 他の同好会メンバーと「同列」

に描かれるだけで、なにかが進展することはなくなる。
実は、こういった「光景」は多くの場面で見られる。アニメ「ぼっち・ざ・ろっく」で、虹夏ちゃんが、ぼっちちゃんをバンドに誘ってくれたことで、ぼっちちゃんは昔からの夢をかなえる。しかし、他方において、ぼっちちゃんと虹夏ちゃんの、この二人の関係はそれ以降、特に、進展はしない。
それは、ホロライブの湊あくあについても同様だと言えるだろう。夏色まつり、常闇トワ、星街すいせいの三人とも、

  • そもそも、彼女たちの<多く>の人間関係の中で、湊あくあは「ワン・オブ・ゼム」にすぎない

わけだ。つまり、まったく「個人的」な関係が発展しない。
これは、なんなんだろう、と思うかもしれない。
しかし、考えてみたいのだ。りなりーが、愛ちゃんに誘われたことで、同好会に入れたことは、りなりーにとっては決定的に意味があることだ。それは、ぼっちちゃんが虹夏ちゃんにバンドに誘ってもらえたことにも言える。しかし、他方において、愛ちゃんや、虹夏ちゃんにとってこの事実は、

  • そんな「たいそう」なことじゃない

わけだw これはむしろ「陽キャの作法」と言ってもいいもので、改めて、なにごとと考えるようなものでもない。実際、虹夏ちゃんは、その時、逃げたギターの代わりがいれば「だれでもよかった」わけでw、まあ、そこまで深く考えることじゃない。
なら、ここで、論語における、孔子の視点を考えてみよう。彼は、どこか「狂気」めいて見える側面がなくはない。というのは、どこか、無理矢理、

  • 文学的

な、「反語」的な価値を見出そうとしているようにもうかがえるからだ。そもそも、「仁」という言葉が反語的だ。ぼっちちゃんのような、中学の3年間を、誰とも友だちになれなくて、そのまま卒業してしまったような子どもを、

  • あえて

「反語」的に、その意味を<反転>してしまう。彼女が「孤独」だったのは、彼女のその

  • 優しさ

ゆえじゃないのか、と、どこか「狂気」をはらんだ、妄想をはらんだ視点で、勝手にそこに、倫理的な価値を見出す。しかし、逆に言えば、そうでもしなければ、ぼっちちゃんのその3年間の「孤独」のさみしさは報われない、とも言えるわけであるw
彼女が「孤独」だったのは、彼女の「優しさ」ゆえにだった、と。もしそうだったとするなら、彼女こそ「有徳」な存在ということになり、つまりはこれが

だ、と。
しかし、こういった視点は、ある意味で真実を突いている。倫理の徳として挙げられる「徳目」は、

  • 勇気

など、どこか「陰キャ」が常に直面している用語が多い。りなりーが人前で笑顔になれなくて、アイドルのステージに立てないで悩むとき、たとえそうであったとしても、舞台に立とうと考えることは、勇気を必要とする。ぼっちちゃんが虹夏ちゃんにバンドに誘われて、これが、人生でもう二度とないチャンスだと考えて、そこから逃げないで、なんとかライブに出場しようとすることも、勇気を必要とする。勇気は、「陰キャ」が立ち向かわなければならない、徳目の最大のものなのだ...。