中国で生前に銅像が建てられた唯一の日本人

私たち日本人は、明治以降の日中戦争の経験から、中国に対して、一定の負い目をもち続けている。そして、実際に中国の方々は当然、日本人への恨みをもち続けてきた。
こういった認識は、そもそも本質的に、日本人にはなんらかの

  • 欠陥

があるんじゃないか、といった疑いを私たちに強いるものとなっている。なんらかの意味で、日本人とは、道徳的に、決定的な瑕疵があるのではないか、と。
こういった疑いをもつことには、一定の正当性がある。その証明として、戦前の日中戦争がある。私たちは決してそこから逃げることはできない。それは、ある意味での、私たちそのものの本質であるからだ。
しかし、他方で私たちは、あまりに日本人について知らなすぎるんじゃないのか、と思わせることがある。
その一番分かりやすい例が、遠山正瑛(とおやませいえい)だろう。
彼は、1935年に中国に渡り、そこで、ゴビ砂漠の砂漠化(砂漠のエリアの拡大)で苦しんでいた、現地の実体に直面する。しかし、彼は、あることに気付く。つまり、その絶望的に思われる砂漠に花が咲いていた、というのだ。そこからヒントを得て、彼は、このゴビ砂漠の「緑化」を志すことになる。しかし、この夢は、日中戦争の開始によって頓挫する。彼は、急いで日本に帰国する。
そこから時は流れて、1975年。日中国交正常化が成立して、遠山は再び、中国に旅立った。

  • 自らの<志>を果たすため

に。

また、現地住民のためにゴビ砂漠の問題を解決したいという遠山氏たちの思いとは裏腹に、その取り組みは現地の遊牧民たちにとっては不快なものとして映っていたのです。遊牧民たちにとって、樹木は家畜の世話に邪魔なものでした。そんな樹木を植え、さらに貴重な水も樹木に使っていることから遊牧民たちは当初、遠山さんたちの取り組みに否定的だったのです。そもそも砂漠に木を植えること自体が無謀なことだとして、遊牧民たちはポプラの木をひたすら植えていく遠山さんたちの姿を呆れながら眺めていました。遊牧民たちから冷たい視線を送られながらも、遠山さんたちはポプラの木を植え続けます。ところが、砂漠に変化が現れ始めました。ポプラの木が植えられた土地には水気が生まれ、小さな雑草が生えるようになったのです。さらに、草が生えたことにより、それを餌とする家畜たちも戻っていきました。するとその光景を目にした遊牧民たちにも変化が起きます。遠山氏たちの活動は砂漠の緑化を諦めていた遊牧民たちに希望を与え、彼らも植栽を手伝うようになったのです。さらにこのことは大きく取り上げられ、世界各国から人材や物資が送られてくるようになります。現地の人々と世界各国からの強力を得られた植栽プロジェクトは順調に進んでいきました。1995年に100万本、そして2001年には300万本のポプラの木が植えられました。こうして不毛の大地とされたゴビ砂漠は、ポプラの木が生い茂る緑の大地へと変貌したのです。
その後、環境団体はこの環境保全活動を事業家し、自分たちが去った後も緑の大地を守ることができるように取り計らいました。ところが、今度は土地の管理を任された郡長が緑化した地域の所有権を再び自治体のものにするべきだと主張し始めます。かつて不毛の大地だった場所に経済基盤が生まれたことで、郡長はその利益を独占しようと私欲に走ったのです。しかし、この事業が日本の環境団体の善意により始まったことを知っていた現地住民たちは、郡長の身勝手な主張に大きく反発します。現地住民の賛同を得られると思っていた郡長の思惑は大きく外れ、彼の主張は一蹴されました。こうして遠山正瑛の善意と情熱は国境を越えて、現地の人々たちに受け継がれたのです。
中国では、この取り組みに対する感謝の気持と、その偉大なる功績を称え、遠山正瑛の銅像が建てられました。生前に銅像が建てられたのは中国では、毛沢東と遠山氏の二人だけであり、中国で日本人の銅像が建てられたのは遠山さんが史上初でした。
その銅像には90歳の高齢にもかかわらず、不屈の精神で努力を続け、志を貫き通したと賞賛の言葉が刻まれています。
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ゴビ砂漠の拡大は、近年の黄砂の被害がグローバルに広がっていることからも分かるように、中国四千年の

  • 最大の問題

だったのだ! 中国にとっては、なんとしても解決しなければならなかった問題でありながら、だれもが、どうしようもなくて、諦めていた。誰一人、中国人が、「そんなことできるわけない」と諦めていた中で、遠山一人だけが、それを諦めずに、取り組んでいた。現地の人に反対され、けむたがられ、嫌に思われ、それでも彼は諦めなかった。

  • 不屈の精神で努力を続け、志を貫き通した

と、先の大戦への憎しみの対象であった日本人の中でも、遠山正瑛(とおやませいえい)だけは、唯一、どうしても、例外として、銅像を建ててまで賞賛せずにはいられなかったのだ...。