私たち日本人が日本語を学習していく過程は以下のようになっている。
- 幼い頃は、母親などとの「会話」で身についけていく。そこでは、基本的に「訓読み」で語る。
- 幼稚園、小学校で最初に身につけるのが、ひらがなであり、カタカナ。そのときは、ほとんどの漢字は読めない。
- 小学校で漢字を学習していく。その過程で、「音読み」の漢字を少しずつ分かるようになる。こういった過程を経て、少しずつ、子どもは本が読めるようになっていく。
こういう意味で、日本の子どもは、かなり小さい頃から、「読み書き」ができるようになっていく。
こうやって考えたとき、日本語には「訓読み」、「音読み」の二つがかなり意図的に分かれている、ということが理解できる。日本語の骨組は、訓読みで尽きている。そもそも、日本には文字がなかった。みんな「訓読み」で話していた。つまり、そもそも訓読みには「文字」がないのだ! じゃあ、今ある訓読みの「文字(漢字)」とはなんだというと、
- 当て字
なわけでw、本質的ではないのだ。
じゃあ、「音読み」とはなにかというと、これは
- 中国語
だ。ただしそれは、今の中国語ではない。ある時期に、日本に「輸入」された中国語で、その「読み」は、「その時代の中国語」によって決定している。まあ、基本的には、平安時代というか、
- 呉
の時代、と考えていいだろう(呉服と同じだ)。
早い話、日本では音読とは、「専門用語」なんだ。訓読みで存在しなかった「概念」でありながら、そこに
- (漢籍に記された)漢字
が存在したとき、「それ」を差すことは、その漢字を読むことと同値だった。そうした場合、その漢字を「読む」ということは、その漢字の「読み」で読むということを意味し、つまりは、中国語で読む、ということと同値だったわけだ。
そして、この「慣習」は今も変わっていない。英語の表現は、その音を
- そのまま
カタカナで書いたものを読む。もちろん、英語はカタカナで書けない。書けないけど「書く」。まあ、
ってわけだw できない。けどやる。やると、「それ」が
になっていく。いずれにしろ、日本語はこのように、
- 階層構造
になっている。
こういった日本語に慣れている私たちにとって、「それ以外」の言語が理解できない。
私がよく例に挙げるのが、韓国人の「ハングル」だ。韓国はWW2での日本の植民地を経て、
を動機として、
- 韓国語からの漢字の排除=ハングルのみでの記述
を選択した。こうした事態を日本で考えると、日本語を全て、ひらがなとカタカナで書こうという野望と同値に聞こえる。しかし、少し事情が異なるのは、ひらがなとカタカナの表現は、たかだか、130個くらいだが、ハングルでは3000個くらいある、ということだ。
つまり、日本語に比べると、ハングルは、母音も子音も数が多い。まあ、これは日本人が少ない音しか使っていないというより、日本語という「文章」で書くときに、その差異を意識していない、というのが正しい。
日本語の上記の「二層構造」で考えると、「訓読み」は幼い頃に身につけるという意味で、どこか、
- 幼ない=フレンドリー
な印象を受ける。対して、「音読み」は、
- 外部(=外国)
として意識されている。つまり、どこか、よそよそしいし、「よく分かっていない」言葉として使っている、という意識がある。つまり、
- 大人のコミュニケーション
で使われるのが、「音読み」なのだ。日本人が「音読み」で表現するとき、例えば、哲学用語をばんばん使って、なにかを語っているときなんかがそうだが、こういったものは、基本的に
- 翻訳本(=直訳本)
を読んでいるような感じになる。つまり、なにかを語っているんだけど、どこか、それは「日本」のことを語っていない、といったような、
- これがなにを意味しているかよく分からないけど、そう「書いて」あるから、きっとこれは、なにかを指示しているのだろう
みたいな表現なわけだ。
こういった形で、日本人には、
- 子どもと大人
の二面性が、すでに「日本語の文法」によって表されている。言ってみれば、日本人は全員、「二重人格」だ、と言ってもいい。
こういった整理をしたとき、なぜ韓国のユーチューバーの方たちの配信を見ていると、どこか、大人なのに
- 幼ない
印象を受ける理由が分かるだろう。韓国の方たちは、大人同士でも、親しくなると、まるで、小学校で同じクラスの子どもが、「なれなれしく」親しくなるのと、まったく、同じような感じで、親しくなる。これは、おそらく日本人でも、みんなが
- 訓読み
で話していると、こんな感じになるんだろうなと思うわけだが、まあ、こういった感覚の分かりやすいのが、「あだな呼び」や「ちゃん付け呼び」が、この感覚に似ているかもしれない...。
追記:
よく、韓国人は、あらゆることに「自国起源」だと主張したがる、みたいな話がある。こういった話を、この日本語と韓国語の差異において考えると興味深いかもしれない。
例えば、日本人に「ラーメンは日本起源か?」と聞いて、日本起源と答える人は一人もいないw
なぜかって、考えると、ラーメンを
- 拉麺
と書いている時点で、これが「訓読み」じゃないことが自明だから、だ。つまり、そもそも、
- 日本語の(文法の)中に、「ラーメンは日本起源じゃない」と刻まれている
のと変わらないから、ラーメンを日本起源だと言うことが、「私は日本語の文法が分からない」と言っていることと同値だと受け取られている感覚があるからだ。
対して、韓国では全ての漢字が排除されたから、日本で言えば、すべてが「訓読み=ひらがな」で書かれているのと同値なのだから、あまりにも、「ラーメンは韓国起源だ」と言うことへの敷居が下がっているわけだ...。