子どもと「倫理」

倫理学というのは、分析哲学であり功利主義においては、ある意味で「不合理」なものとして、もっと言えば、

  • 非科学的

なものとして馬鹿にされ、「排除」される対象だった。その代表がカントで、カントの倫理学は彼らによって、常に「嘲笑」の対象として扱われた。
例えば、「義務論」というのがある。しかし、功利主義者はこの考えを認めない。つまり、功利主義者は、

  • 全ての命題は「多数決」で決定されるべき

という考えなのだw 彼らは一切の「権威」を認めない。どんなものも、なんらかの「権威」が決定する、という手続きを認めない。すべては「多数決」という、

  • 合理的

な意志決定方法によってしか、答えは決まらない、と考える。
功利主義は、まず、犯罪を否定する。なぜなら、どんな犯罪者も「心の闇」を抱えているからだ。つまり、全ての犯罪者は、その犯罪を行わなければならなかった

  • 原因

がある。子どもの頃に、幼児虐待を受けていた、とか。つまり、そうである限り、その犯罪者の行為をその犯罪者の責任にできない。その幼児虐待を行った大人が悪いのに、その犯罪者を責めることは、

  • 倫理的にやってはいけない

ということになるw よって、功利主義者にとって、牢屋は不要ということになる。一切の犯罪は「犯罪じゃない」。よって、全ての犯罪者は、その日のうちに釈放される(ちなみに、今のアメリカでは、少額の万引は全員、釈放されるんだそうだw)。
こういったふうに考えたとき、ようするに、功利主義者が行っていることは、

  • 子どもと大人の区別を認めない

という態度だ、ということが分かるだろう。功利主義者はこの二つの区別を認めない。つまり、ここに、なんの「合理性」もない、と考える。
対して、カントが「啓蒙とは何か」において語ったことは、なんとも反語的な論理だったわけだが、カントはこういった「形而上学」を、その意味も含めて、この社会を成立させている何かとして認めるわけである。
私たちは大人になると、犯罪を犯せば、逮捕されて、裁判にかけられる。そして、このことを疑ったり、不思議に思ったりしない。しかしこれは、考えてみると、

  • カントが引いた線

の上で考えている、と言えないこともないのだ。もちろん、カントはもっと、はるか太古から人類が行ってきた営みの「自明さ」の上で主張しているわけで、別にカントが急に、こういった主張を始めた、というわけじゃない。
私たちはこの「区別」の自明性を疑わない。しかし、考えてみると、功利主義者が主張するように、こういった区別はそこまで自明ではないのだ。
しかし、逆に考えることもできる。功利主義者が言っていることは、そこまで合理的なのだろうか? つまり、こう考えてみよう。功利主義者は、ある意味で、

  • 子どもを子どもと認めていない

とも言えるのだ。彼らは子どもに「大人」と同じ基準をあてはめる。それは、子どもだろうと大人だろうと、その「倫理」の基準が変わるはずがない、と考えるからだ。どっちだろうが、「人間」であることは変わらない限り、行った「行為」の意味が変わるはずがない。つまり、それを大人がやろうと子どもがやろうと、「良い」ことはよいし、「悪い」ことはわるいにきまっている、といったような

  • 自明論

によって、論理構成されている。
しかし、考えてみるまでもなく、この世界は功利主義者が考える「倫理学」によって成り立っていない。むしろ、カント哲学に近い思想によってできている。これに対して、功利主義者はカントにヒステリーを起こし、世界は間違っている、その間違いの原因はカントであると、諸悪の根源にカントを見出して、なんとかしてカントを教科書から追い出す「運動」を何世紀にも渡って、続けている、というわけだ。
例えば、アニメ「バンドリMyGO」を考えてみても、多くの人が忘れていることは、ここにでてくる登場人物は全員

  • 子ども

だということだ。しかし、子どもとはカント的世界においては「守られる」存在であり、啓蒙の対象だ。つまり、まだ大人ではないのだ。そうである限り、子どもの一切の行為に対して、

  • 全的責任

が発生することはない。子どもは逮捕されないし、牢屋に入れられることはない。せいぜい、子どもに課される罪は、「少年院」に入れられるくらいのものであって、子どもの罪は、回りの大人の「保護」の対象として、その大人の罪に還元される。
つまり、このアニメに出てくる子どもたちは、確かに、ナイーブな行動が回りを傷つけているが、そのままの意味で、その子どもの罪が問われることはない。このことが、今後、どのように、この作品で描かれることになるかは分からないが...。