文系=トートロジー

カントが「叡智界」と言ったとき、当時のヘーゲルなどの若手の哲学者はごぞってカントを

  • オカルト

扱いして馬鹿にした。いまでも「トンデモ」とか、「陰謀論」とか言って、なにかを分かったつもりになっている「文系」たちと、まったく同じ反応だ。
そして、これは「分析哲学」「科学哲学」や「功利主義」に続く。カントの「叡智界」は彼らのかっこうの

  • 餌食

だった。つまり、これを言った時点で、非科学。つまり、「トンデモ」「陰謀論」となって、彼らの基準では「論破終了」となって、彼らは一人もカントを真面目に相手にしない(で、自分たちは「自明」かつ「幼稚」なレベルの、どうでもいい「クズ論文」を量産するという、悲惨な末路を呈しているw)。
ここで、カントが「叡智界」と言ったのは、当り前だが当時の「自然科学」との対決がスコープに入っている。つまり、フランシス・ベーコンのノルム・オルガヌムとの「対決」の過程で導かれた結論なわけでしょ。つまり、近代の自然科学の手法である、

と、私たちの日常会話はどうも違った形で自生的秩序が形成されている。だったら、この後者の「システム」をどう考えたらいいのか、というところから彼の問題意識がある。アプリオリ概念もそうで、明らかに、自然科学的帰納法とカントは戦っているわけ。そんな、近代科学という「初歩的なレベル」の単純化で現代の私たちが生きている世界の、さまざまな「仕組み」を破壊されたら、それこそ、人間社会が消滅する、という危機があった。まあ、実際にそれを実行しようとしたのが、ナチスドイツなんだよね。彼らは極端に科学主義を主張した。そして、彼らの最大の主張は

だった。これを理由に、ユダヤ人を絶滅させようとした。カントはこういった未来を予言して、戦ったわけでしょ。しかし、現代の「分析哲学」「科学哲学」「功利主義」は、そういった文脈を理解しないで、カントを「オカルト」「陰謀論」として無視して、むしろ、ナチスドイツの「優生学」は

  • 科学的に正しい

とか言って「喜んじゃっている」程度の幼稚な連中なわけでしょw
こういったことを理解するって、ある種の、学問的なトレーニングがいるんだよね。たとえば、今問題になっている、DJ SODAの件だけど、「どんな服を着てもいいのは当り前」って、これ。

なわけでしょw だって、私たちが普通、「服」と呼んでいるものは、「着ていいもの」という意味があるわけでしょ。着ていいから「売っている」んだから。ネットの動画を見ていたら、欧米のファッションショーの動画で、なんか体の陰部にシールみたいなのを貼っているだけのかっこうで、ウォーキングをやっているのがあったけど、つまりは、この「操作」を「極限」まで進めれば、

  • なにも着ない

でも、それが「ファッション」だって言ってしまえば、許される、ということになる。
つまり、さ。こういった形で、あらゆる学問は、理論構築されているの。これに対して、日常語はそれぞれの「文脈」で、

  • 問題が起きていない範囲

で「成立」している世界であって、その中では、この問題がさまざまな場面で噴出してトラブルは起きているんだけれどの、それでも「全体」として成立している、というのが日常語なわけね...。