「能力論」批判

今、日本社会は完全に

によって支配されている。あらゆる場面で、この「能力」という言葉が現れて、人々の格差の「正当化」に使われている。そして、その一つのパラメーターとして「東大」がある。つまり、東大に入った人はこのピラミッドの「頂点」にいるとされて、まるで、「殿上人(てんじょうびと)」のように彼らは振舞い、SNSで偉そうに(自分の欲望をたれながすという)説教をして、大衆を愚弄している。
しかし、少し考えてみれば、この考えの根拠が脆弱なことが分かるだろう。
まず、「能力」とは、そもそもポテンシャリティという思想であって、

  • まだ行っていない行為

に対する「蓋然性」を計算している。それは、過去の「実績」によって計算されることが多い。例えば、大学受験でのテストの成績を、予備校の模試のテストの成績によって判断する、といったパターンだ。
実際に大学受験で何点がとれるかは、その大学受験を受けてみなければ分からない。しかし、多くの場合は、この予備校の模試が、その点数を「予想」していると解釈される。つまり、それを「能力」と呼んでいるだけなのだ。
つまり、

  • 能力=過去の「アナロジー

なわけだ。過去のある時点のスナップショットから、それ以降に、なんの変化もなければ、きっと同じくらいのパフォーマンスを発揮するだろうという「定常性」からの類推というわけだ。
この考えのなにが問題なのか?
それは、そもそも

  • 「何」の能力

なのかが決定しないからだ。詳しく説明していこう。私たちは、ある未来についての「理想社会」のイメージがある。なんとかして、未来には、こういった「理想社会」が実現したいな、と考えている。では、それはどうやったら実現できるだろうか?
ここで、一つの問題が発生するわけである。今、評価をしたい、つまり、その「能力」を測定したい相手がもしもその「理想社会」についての目標に同意しない人だったら、どうなるだろうか? つまり、その「理想社会」にコミットメントしていない人は。もっと言えば、そもそもその「理想社会」にすべきじゃない、反対だと考えている人だったら?
そういう人は、ことごとく、その「理想社会」に向かいかねない活動の邪魔をしてくるだろう。つまり、無意識に、あらゆる行動の邪魔をする。つまり、逆なのである。先ほどの受験の例で言うなら、そういった人の場合、まず、徹底してその予備校の模試から、大学受験から、そのテストで高い点数を

  • とらない

行動をする。まず、テストを受けないという方法もあるし、白紙て提出するという方法もあるし、あらゆる手段で、そもそものこの「受験社会」に抵抗するわけである。
さて。こういった人は「能力がない」のだろうか? しかし、これこそが「能力」主義の本質なわけである。私たちは簡単に、「能力」なんていう言葉を使うが、それは、コンピュータのような、プログラムに対して言われるべきものであって、人間に対して使われるべきじゃない。それは、人間に対して、そういった測定が「不可能」だからであって、むしろ、そういった測定は「反人権」だから、と考えられてきたから、と理解すべきなのだ...。

追記:
こう言うと、実際の仕事の現場では、それなりに「能力」というのが機能しているんじゃないか、と言うかもしれない。それは、社内システムの「評価」の話であって、それによって実際にいくら給料が払われるかとか、昇格をどうするかといったものと「同値」に受け取られているに過ぎない。つまり、最初に言った「過去」についてのものであって、「能力」主義の本質的な問題と関係ない。実際に、「内輪(うちわ)=内部」で、どんなにそんな評価をしようとも、業績が悪くなって倒産する企業は毎年、山のようにある。つまり、そのことは、そういった評価が本質から考えて

  • 無意味=無力

であることを実際には示しているわけだ...。

追記2:
東浩紀は、彼の文章にあらゆるところで、自分の「敵」を「左翼」と呼んで批判している。
しかし、東浩紀のその「反左翼」は、そもそも、平等社会に反対し、経済格差の拡大に「賛成」しているわけで、実際に、東浩紀自身が「反左翼」の人なのだw こいつの「反左翼」が、統一教会勝共連合のことであることは自明だが、今だに、相手を「左翼」と呼んで罵倒した気になっていることからも、そもそも今、世の中的に

  • 左翼と呼んで相手を「罵倒」できていると思っている=統一教会の信者

であることが社会通念として確立しているのにもかかわらず、今だに、「左翼」が罵倒語として通用すると思っているところに、彼がいかに「統一教会」のイデオロギー的な信者であるかが分かるだろう。
そもそも、東浩紀

  • 平等社会に反対し、経済格差の拡大に「賛成」している

のであって、本当に「反左翼」なのだ。しかし、「あなた」は本当にそんな社会に住みたいのか? よく考えた方がいい。
こいつは、私たちが経済的に困っても、絶対に助けてくれない。こいつは、自分のゲンロンという会社に大金をみついでくれる人にしか「同情」しない。そういう人しか人間として扱わない。それは、こいつの会社の商品がどれも、馬鹿みたいな高額の値段で売っていることから分かる。こんな値段で買って、使われるのは、東浩紀の「海外旅行」の豪遊に散財されるだけだ、という「反公共」的な存在であることをよく理解した方がいい。