なぜ「現実のヨハネ」は「ラブライブじゃなかった」のか?

アニメ「現実のヨハネ」は、正直、最後まで、まともに見れなかった。最終話もどこか「義務感w」で流し見した感じで、とりあえず、ストーリーくらいは理解しよう、といった感じだった。
こういった私の「私見」に対して、いろいろと今回のこの作品の「問題点」を分析してくれているのが、以下の動画だ。

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今回のこの作品は、もともと「映像畑の監督」だったこともあって、

  • 最初から、脚本を「書く」ことになんの興味もない人たちが作っていた

というところにすべてがあったんだと思う。まるで、京アニの「やたら映像だけきれいにすることにしか興味のない、ストーリーに興味のない人たちによって作られた」作品群を思い出させられる、残念さだった。おそらく、「これ」で芸大は卒業できるのだろう。しかし、これは「売り物」じゃない。
第一に「残念」だったのが、作品の舞台設定である

が、主人公のヨハネの「成長=現実社会のルールの受け入れ」と

  • 矛盾

していた、ということだろう。作品は最後で、ヨハネライラプスと「会話できなくなる」という形で終わる。これを見て、

  • だったら、この「ファンタジー」という舞台設定は不要だった

よね、という感想しか生まれない。ようするに、この制作陣たちの「ファンタジー要素に対する愛」が感じられなかったわけだ。彼らはファンタジーが「嫌い」だったのだろう。ファンタジーをたんなる

  • 偽物

としか感じられない連中によって、「ヨハネの成長=ファンタジーなんていう<幼稚>な子供だましからの卒業」という形で総括されたことによって、完全に、日本アニメが昔から描いてきた、この系列の作品がかろうじてもっていた「リスペクト」を欠いた

  • 説教作品

になってしまった。
ただ、もう一つ、私が残念だったことは、

ということだ。私がどうしても理解できなかったことは、この一点に尽きている。ラブライブ・サンシャインの登場人物を登場させながら、ラブライブのストーリーを「やらない」ということが、私には理解ができなかった。だったら、なぜ、サンシャインのキャラを使ったのか? この、サンシャインとまったく関係ないストーリーをやることは、完全に

  • サンシャインという作品の「破壊」

を結果してしまったという意味で、残念だった。この作品には、「(ラブライブの)物語がない」。たんに、映像畑の監督が自分が過去から積み重ねてきた「テクニック」を披露するために

  • 使われた

残念な「きれいなだけ」の映像を見せられている「苦痛ななにか」になってしまった。せめて、ラブライブ・サンシャインに「愛」のある人たちによって、アクアの9人が、ファンたちに

  • もう一度、「彼女たち」を見ることができた

と感動させてくれる描写にしてくれたらよかったと思うわけだが、残念ながら、完全に「別の世界線で、別の日常の困難に格闘している人たち」だったわけで、ストーリーとしての「世界線の重なり」を感じさせるものじゃなかった。ようするに、制作陣は「キャラの外面だけ借りてきた」といった「ずうずうしさ」だけがやたら、鼻についた、といった印象だったわけだ...。