SFという「幼稚さ」

私は「SF=サイエンス・フィクション」という言葉を使うことが

  • 恥かしい

のだが、なぜ、いっちょまえの大人がこの言葉を使い続けられるのだろうか? 同じことは、「推理小説」などについても言える。というか、もともと、こういった分野に関わってきた人たちは自らの行っていることを

  • <サブ>カルチャー

と呼んで、この「負い目」であり、「恥かしさ」に自覚的だったんじゃないか。
なぜか?
考えてみればいい。小説を書くとして、そこに「未来の人間」を登場人物として登場させるなら、どんな形であれ、ある程度の

を導入せざるをえない。つまり、「物語」である限り、この制限は避けられないのだ。だとするなら、わざわざ、なにかを「SF」と呼ぶのは、蛇足であり、余剰的だ。
では、いわゆる「SFマニア=SFおたく」というのがなにをやっているかだが、それが、

だ。そして、その一つ一つのSF設定に対する「科学性」を考察する、ということになる。この事情は、「推理小説マニア=推理小説おたく」でも同様だ。彼らは、推理小説に登場する「謎解き」を、いくつかの指標によって、

  • 分類

する。この二つに共通するのは、その「テクニック」の

  • 娯楽性

だ。まあ、いわゆる「大喜利(おおぎり)」みたいなものと同じなのだ。それが「おもしろい」とするなら、その「娯楽」性はまず、「分類」され、傾向性によって、重み付けされ、

  • SF小説作りの「テクニック」
  • 推理小説作りの「テクニック」

として、ある種の

  • 文系的「知」

として、<体系化=哲学化>される。
もうお分かりだろう。なぜこれが、「サブ」カルチャーとされているか、が。
どんなにSF小説が大量生産されても、推理小説が大量生産されても、私たちがこの世界で生きる「苦しさ」に回答を与えることはない。貧しい人がこの世界で生きることに希望をもつことはない。いや、そうじゃない。それがSF小説だろうが、推理小説だろうが、そこに

  • 書かれている

ものが、私たちがこの世界で生きる「苦しさ」に回答を与えるものであり、貧しい人がこの世界で生きることに希望をもつことなら、なんだっていいわけであるw そうであるなら、それがSF小説か、推理小説かは

  • どうでもいい

わけで、そもそものこの「カテゴリー」が

  • エラー

なわけである。こういう「金持ちの道楽」に意味があるというなら、むしろそう主張する人がそれを「証明」すればいいのであって、他の人には無関係なのだ...。