アニメ「葬送のフリーレン」のOPの最初は、横を向いて横たわりながら、目を閉じているフリーレンがそのまま、半目を開く場面から始まる。そしてこの場面がなぜ印象的なのかは、まるで彼女が
- 哲学者
のように、深い「内省」を伴って深い考察を伴っているような眼差しを見つけるから、私たちは魅き付けられるわけである。フリーレンはたんに長く生きただけでなく、彼女が共に行った勇者たちとの冒険を「思い出し」ながら、人間を深く理解しようとする旅であることを私たちが知っているからこそ、そのまなざしに魅かれるわけである。
そう考えたとき、この関係にはどこかデジャヴのようなものを思わないだろうか? 例えばそこに、アニメ史における重要なキー概念として
- クーデレ
がある。エヴァンゲリオンの綾波レイはテレビ版において、完全に高校のクラスで、
- デタッチメント
な存在として現れる。クラスの誰一人とも「会話をしない」。そのことは、主人公の碇シンジを、たんに「不安」にするだけでなく、彼は彼女のその孤独な姿、誰とも会話をせず、一人クラスの外の景色を眺めているその眼差しの中に、なんらかの
- 意味
を読み取らざるをえなかったわけだ。
そしてこれは、それ以降の日本アニメの通底音となった。多くの「クーデレ」と呼ばれるべき「無口キャラ」が現れたわけだが、彼らアニメ制作陣はその「無口」性に
- 耐えられなかった
わけだ。彼らは、エヴァを「そういうもの」として解釈できなかった。どうしても、その綾波の「無口」の
- 理由
を探さずにはいられなかった。つまり、この「ロマンティシズム」は必然的に、作者による
- 内面化
を伴って、反復された。つまり、この概念は
- 堕落
したのだ。ヒロインが無口であるということは、主人公としての「僕(ぼく)」である男の作者は、その女の子を「苦しみから救い出す」という「弁証法」的な解決が、死ぬほど反復して制作された。もしもその「無口」に「理由」があるなら、あとはその
- 病気
を
- 治療
すればいい、ということになる。つまり、ヒロインは「絶対」に、「僕(ぼく)」である男の作者という主人公によって「救われる」、たんなる
になりさがった。そして、今では、こういった無口キャラは
- 絶滅
したわけだが、さて。彼女たちを「絶滅」されたのは、一体、誰のせいなのか。言うまでもないだろう。
しかし、である。
こういった「堕落」は、一瞬で起きたわけではない。少なくとも黎明期は、さまざまな葛藤や混乱があった。そして、その中で、さまざまな名作が生まれた。
まず、そういった系列の作品は、「ループもの」と呼ばれた。その最初を、鈴宮ハルヒの憂鬱の、長門有希に見出すことは正当だろう。つまり、エンドレスエイトだ。この無限に続くかと思われる、高校の夏休みのある日の
- 反復
を、唯一全て「記憶」しているのが「宇宙人」である彼女であり、その事実に、ハルヒ一同は驚愕する。というのは、そもそも、そんなに長い間の、「反復」に人間は耐えられるはずがない、と受け取られたからだ。長門の「無口」には、なにか
- 哲学者
を思わせるような、「深い思索」があるんだ、と受け取られた。そういったことが、彼女たちの「無口」には、それに付随する魅力として理解されていた。
こういったループ物は、言わば、先行した「クーデレ」のマイナーバージョンとして現れている。たとえば、シュタゲの鳳凰院凶真に出会う牧瀬紅莉栖(まきせくりす)は、彼がいつもの能天気で楽天的な姿でなく、ひどく、年老いたような、ふけこんだような、その姿に驚く。そして、次第に彼が
- 何度も何度も
タイムリープをして、椎名まゆりを救おうとしてきたことに気付く。大事なポイントは、鳳凰院凶真の「見た目の実年齢」は、本当の彼が「経験」してきた
- 時間
を表していない、というわけで、長門有希と同型のものとして解釈されるわけである。
これは、まどマギの暁美ほむらちゃんであり、リゼロのスバルであり、まったく「同型」のタイムリープものが反復されるわけだが、これらに共通するのが、どれもこれらのタイムリーパーの
- 優しさ
にある、と言える。彼らタイムリーパーがなぜ、これほどの苦しさを味わいながら、同じ体験の「反復」を行うのかは、彼らが「救いたい」人がいるからだ。そして、そこに、この「超越的なSF的、ファンタジー的なロマンティック物語」において、ある種の「倫理」が現れるわけである。
こういった系列を見てくると、今回のアニメ「葬送のフリーレン」も、こういった系列の作品の「マイナーバージョン」となっていることに気付く。
なぜ、牧瀬紅莉栖(まきせくりす)は鳳凰院凶真にひかれるのか? それは彼の「優しさ」を理解するからだ。そして、それと同時に、彼の多くの「経験」がもたらす、
- 苦しさ
であり、経験を「新鮮」なものと感じられなくなる、長く生きることの「苦しさ」が、彼を「無口」にさせざるをえない「必然性」にも気付く。これは「共感」の物語なのだ。この構造は、まどマギでのほむらちゃんが、何度も何度もタイムリープして、まどかを救おうとしてくれた、そのことの、どこか「老成」を思わせる、あまりにも多くの「経験」をしたがゆえの、どれもこれもが、いつかどこかで経験したことであるがゆえの、無表情。それは、「苦しい」無表情でありながら、他方では、誰か一人を助けたいがゆうえに何度も何度も繰り返している、限りないまでの「優しさ」の無表情。そして、
- 内省
の無表情。
(おそらく、こういった「苦しさ」はアカデミズムに生きる学者の苦しさと似ている。自分たちが研究する対象は絶対に大衆には理解されない。しかし、たとえそうだったとしても、一人孤独に研究を続け、多くの知見の渉猟を続けずにはいられない。歴史学者は、この「反復」の中で、「絶望」の中で、それでも世間に自らの研究の成果を発表し、その、ささやかな反響を受け入れる...。)
おそらく、フリーレンにおいても、この「内省」の無表情がある。彼女は、どうしても過去を想起せずにいられない。過去の人間。自分が理解しようとしなかった、そして後悔してきた、人間を理解しようする意志。それゆえに、何度も何度も繰り返すことになる人間の生と死。そこに彼女は、どんな倫理を見ることになるのか...。