反「原因」主義

ネット上では「遺伝」とか「才能」とか、つまりは、

  • 親の七光り

を「不都合な真実=運命」だとぬかして、社会差別を「正当化」する議論を主張する、インテリヤクザがあふれている。
「お前が頭が悪いのは、お前の親が頭が悪いからだ」とか、「頭の悪いお前の家系は滅びるべきだ。お前は子供を産んではいけない。なぜなら、お前の遺伝子がダメだからだ。ダメな遺伝子が残ると、国家に損害を与え、国力を衰えさせる」とか。まあ、宮台真司が「日本人の劣化」と言っているのも、この一種だ。
「お前はダメだ」「日本人はダメだ」と言うとき、それは、

  • ある「原因」から、ある「結果」が起きる

と「主張」していることになる。しかし、哲学者のデービッド・ヒュームは、「すべての原因は存在しない」と言った。なぜか?
それは、ヒュームは、「私たち人間に原因を発見することはできない」と言ったのだ。私たち人間が「発見」しているものは、たんなる「相関」にすぎない。「ある事象が起きたのと、同時に、別のある事象が起きた」と言っているにすぎない。そして、これが一見して、何度も繰り返されているように思えたとしても、あくまでもそれは

  • 慣習

つまり、人間の側の「生活習慣」が結果的に「そうであるかのように見させている」と言うわけである。
おわかりであろう。
なぜ「遺伝」だとか「才能」だとか「親の七光り」だとかが駄目なのかは、そもそもの私たち人間側が、

  • 原因

を見つけられる、という「必然的な誤謬」を犯しているからだ。これは一種の「カテゴリー・エラー」なのだ。
アニメ「葬送のフリーレン」第10話は、フリーレンとアウラの対決の最終決着が描かれたわけだが、興味深いのは、アウラ側「魔族」たちの

  • 習性

だ。彼らは人間が社会の中で「偉い」人は、それなりの服などの「容姿」を着飾るように、魔族同士の社会秩序を「自然発生」させたものとして、魔力を発散させて、力比べをする。これによって、より強い魔力のものが、社会的地位の高い立場となっている。そもそも魔族たちは、言葉を使って人間をあざむき、次々と人間を殺してきたわけだが、他方において、長い年月を修行することに獲得する魔力の強さによって、魔族社会内の魔族同士の序列を競っている。つまり、ここにおいて「魔力という序列」には極端なまでに

  • プライド

をもち、この「序列」を「尊重」しようとする習性をもっている。ちょうど、日本社会において、やたらと「東大出身」の連中が、偉そうにいばっていて、実際に、会社の中の高い地位についていることと比べられるだろう。
これに対して、フリーレンの(人間の)師匠にあたるフランメは、フリーレンに「生涯に渡って、自分の魔力を隠す」ためのトレーニングをした。フランメはフリーレンに

  • 死ぬまで、自分の実力を<隠せ>

と指導した。実際、フリーレンは勇者と旅をするまで、ほとんど誰からもしられることなく、田舎でひっそりと暮らしていた。まあ、ネット上では自分が東大出身だからって偉そうにしている連中が溢れているわけでねw 私たち人間社会も、東大出身という「魔族」と戦う必要があるようだ...。

追記:
フランメの最期の言葉はこうだ。「いいか、フリーレン。目立たず生きろ。歴史に名を残そうなんて思うな。お前が歴史に名を残すのは、魔王をぶっ殺すときだ」。