東浩紀の「訂正可能性の哲学」の正体

自民党議員である、石川県の馳知事は、元新日本プロレスのプロレスラーだが、彼は今月の17日に東京都内の会合で公演した。

会合はスポーツ振興に関するフォーラムで、全国の自治体関係者ら約90人が参加。報道陣にも公開されていた。馳氏は発言に先立ち、出席者に「メモを取らないで」「外で言ったら駄目」とした。公演後の取材に対し「オン(レコ)とは聞いていない」と述べた。
mainichi.jp

よくもまあ、ぺっちゃくっちゃ、としゃべっておいて、なにを言っているんだと思うのだが、嗤えるのはその後だ。

馳氏は同日夜「誤解を与えかねない不適切な発言であり、全面的に撤回する」のコメントを出した。
mainichi.jp

あーあ。もう言わずもがな、なわけだ。
ただ、私はここで、馳氏について何かを言いたいわけではない。そうではなく、そもそも、最近、東浩紀という悪魔が言っている「訂正可能性」という言葉が何を言っているのかを、この事件がよく説明していると思ったわけだ。
この「訂正可能性」という東浩紀の二つの本は、まず、完全にアカデミズムからシカトされている。誰も言及しないだけでなく、とにかく、この「悪魔」と関わると、さまざまな災厄を呼び寄せることになると考えて、誰も彼に言及しない。
そりゃそうだろ。
東浩紀がやりたいのは、この馳のような「訂正」を

  • 全肯定

するためだったからだw 彼は、こういった馳のような、安倍元首相に代表される悪魔たちに、自分を「御用学者」として高く売るために、

を「仮想敵」として、こういった馳氏の「訂正」を「否定」する<サヨク>を愚弄し、嘲笑するために、その「理論的支柱」を与えるために、彼の二冊の本を書いた。もはや、絶対に読んではならない本であることは明らかだろう...。