ゴジラ-1.0のアメリカでの成功

ここのところ、ゴジラ-1.0の映画が、アメリカで公開されて、概ね高評価となっていることが話題となっている。その報道によれば、一般の人の見た人の評価だけでなく、いわゆる、映画評論家と呼ばれる人たちも、どっちも「全員」が、この映画を「良い」と言っている、というわけだ。
そもそもアメリカにおいて、映画評論というのは、日本以上で発達した分野だ。ここにおいては、日本サッカーのセルジオ越後のような、

  • 日本の試合であれば「全て」ダメ出しをする

ような人だっているわけで、いわば、そんな人までが、評価している、ということを意味している、というわけで、ちょっとした社会現象になっているのだろう。
じゃあ、なにがそのような評価に繋がっているのか、ということになるが、やはりこの

  • 人間ドラマ

の部分についての受けとめ方が、どうも日本と違っている、ということだったんじゃないか。
早い話、この作品の主人公はフロイトが描いたように、

なのだ。PTSDと言った方が、今の人には分かりやすいだろう。つまり、ここの部分についてのリアリティが日本の視聴者も専門家にもない。今の日本人は全員が

  • 戦後世代

になっている(年寄も、戦前は「子ども」だった世代)といった感覚を忘れてしまっている。
対して、アメリカにおいてはずっと、戦争は

の問題だ。多くの人が、アメリカ軍に所属して、実際の戦場に行っている人も多い。そういった人にとって、この映画の主人公が心に抱える「傷」である、

  • 自分だけが戦場から逃げてしまった

という「罪悪感」は、ずっと、彼らを苦しめている。
これは、簡単な事実問題じゃない。そもそも、「自分だけが生き残ってしまっている」こと自体を「罪」として受けとめることさえ、自然に起きる。それだけ、デリケートな問題なのだ。
多くの戦場帰還者が、さまざまなPTSDに苦しめられている。人によっては、酒に溺れる人もいる。家族の中で孤立した人もいる。
この映画は、ゴジラという体裁を使っているが、いわゆる「ゴジラ映画」ではない。そもそも初代のゴジラは、日本の戦後復興を迎えた時期に、それを

  • 嘲笑(あざわら)う

かのように現れる。日本の離れ小島に昔からいた恐竜の生き残りが、アメリカの原爆実験によって、特殊な変異を起こして、巨大化し、原子エネルギーをもった火炎放射を口から行う生物として、東京を

  • 再び「焼け野原」にする

という

  • 文明批判

を包含している。だから、そこには「生物学者」がいたし、彼が重要な役割をもって活躍した。
しかし、今回の映画では、ゴジラはまったく、その存在が「周縁化」されている。主人公の青年にとって、ゴジラが問題じゃない。自分が戦争から逃げて、戦後も生き延びてしまっていること、今だに、戦後の平和を受け入れられない、彼がいつまでも

  • 戦前の人

であることが問題であり、それだけが、問題として問われている。それに、ゴジラが対応する形で使われている。つまり、戦前のあのとき、彼がゴジラに「とどめ」をささなかったから、それから、巨大化して今、再び東京を焼け野原にしている。つまり、彼の戦後はまだ訪れていなかった、という映画になっている。
もう一度、彼には戦前の「おとしまえ」をつけるチャンスが訪れている、と受け取られている。そしてそれを彼がそう受け止められたのは、実際にゴジラが、戦争と同じくらいに「強敵」と受け取られていたから、と。
実際にこの映画におけるゴジラは、初代ゴジラがもっていたような「象徴」性としての存在というより、もっと、

に現れる鮫のような、より「ホラー的な恐怖」を狙っている。それは一方で、主人公にとっての「強敵」であることを示すのには効果的かもしれないが、初代ゴジラがもっていたような、

  • ゴジラそのものが今、ここに現れている(文明批判的な)象徴性

は弱まっていいる、つまり、ゴジラはあくまでも「手段」としてしか描かれていなくて、そのゴジラがここに登場したこと、そのものの

  • この世界の意味

のようなものは、誰も気にしなくなってしまっている。
しかし、どうしてこんなことになってしまっているのだろう? それの一番分かりやすい説明は「シン・ゴジラ」だろう。この映画が、いわば、そういったもともとのもっていた初期ゴジラ

を完全に破壊したわけだろう。シン・ゴジラはたんなる、SFオタクが作った、SFおたくコミュニティの中で、監督が「うけがよかった」ネタをつなぎ合わせて、なんかそれらしいムービーにしただけの「オナニー映画」に過ぎない。シン・ゴジラには、そもそも

  • 人間の苦悩

が描かれていない。なんか「適当」に「オタク」が、わいわいがやがややってたら、ゴジラに勝っちゃった、というものにすぎない。そこに、文明批判もないし、人間への「呪い」もない。
そういう感じで、なぜゴジラは「パロディ」の対象にされたのかは、よっぽどよく考えた方がいいと思う。庵野というエヴァの監督によるシン・ゴジラへの

  • ふざけた

アプローチは、この監督という人間の「人間性」の下劣さと深く関係すると思っている。そもそもこいつから、人間的に立派だと思える発言を聞いたことがない。こういう「SFファン」は、ずっとそういった形で、作品を「ネタ」にして、

  • 友だち付き合い

の中での「話のネタ」として、それでもりあがって、友だちに自分が「承認」してもらえる方法としてした、物語を考えたことがない。もともとが、いいとこのボンボンであり、そういった「富裕階層」「上級国民」の人間としか付き合ったことがないから、もともとの性根が、

  • 子ども

の人間に、ゴジラという「ネタ」を与えたら、こういうのを作っちゃうよな、といったような駄作なわけでしょw
ゴジラが「パロディ」と言うとき、初代ゴジラの身長と今の東京の高層ビルの高さを比べてみればいい。ゴジラは完全に「子ども」だよ。いわば、日本の高度成長はゴジラを「超える」ことを目指してきたと言ってもいい。そして、庵野

  • 人間はもはや、ゴジラを「超えた」

と言ったわけであるw なーんだ、人間の「知性」があれば、ゴジラなんてこんなに簡単に「人間の力」でやっつけられるんだ、と。すごいね、

って、という形で、もはや、

だと、わざとらしく

  • 東京賛歌=東京自慢=人間賛歌=庵野自身による自らを「天才」と自称する

を高らかに「自慢」しただけなんだw
しかし、である。
他方で、多くの人が警鐘を鳴らしているが、そもそも東京のこれだけの高層マンションは、東京以外では建築法違反だ。東京以外では、そもそも、こんな高いビルを建ててはならない。なぜなら

  • 危険

だからだw ところが、東京はもう土地がないから、政治家が東京の土建屋に仕事を与えるために、高層ビルの建設を「例外」として認めたわけ。
ねえ? 絶対にこれ、「たたり」を受けるよね。
ゴジラが東京を焼け野原にする姿は、どこか、

を思い出させるものがある。それは、日本人の「自然観」に深く関係している。この「自然観」が、そもそものWW2についての歴史解釈にも大きく影響を与えている。近いうちに東京は

の襲来を受けて、「焼け野原」となって滅びる...。