なぜ人々は「フラット革命」を言わなくなったのか?

以前、スーパーフラットとか、フラット革命とか言われていたんだけど、その意味は、世界がフラット、つまり、みんなが同じになる、という意味で使われていた。分かりやすいのが、コンビニで、日本中でコンビニが売っているものは、ほとんど同じで、そういった形で、世界中が「同じ」になる、という主張だった。
こう言った場合、ここでの「同じ」は、中途半端ななにかじゃない。言葉も同じになるし、見るテレビ番組や、動画も同じになる。着るものも、なにもかも同じになる。
例えば、マクドナルドのハンバーグを世界中の人が食べている、みたいなもので、全員が

  • 金太郎飴

になる、という意味だ。
こういった主張は、ある部分にはそうだと言っていいのかもしれないが、ほとんど全ての分野で、そうなっていない、ということになるだろう。

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岡田斗司夫の切り抜き動画だが、ディズニーなどの欧米のアニメは、考えてみると日本のアニメとは、なにか描いているものが違う印象があるわけだ。つまり、なにか別の「動機」で作られているような印象がある。
欧米のアニメは、とにかく

  • 口の動きと、声優の声を異常なまでに<一致>させることに全勢力を傾ける

わけだw もう、これをやってもらうために、膨大な予算が最初から割かれている、なんて事態にすらなっている。
これはなんなのか?
日本語においては、母音の音節も子音の種類も少なくて、種類が限られている。どちらかというと、音を聞き分けることより、今の文脈を理解して、多くの種類がある同音異義語のどれなのかを素早く判断していく必要がある。対して、例えば英語では、母音の種類も子音の種類も多い。耳で聞いていても、結局どっちなのか分からないことが多い。そういう場合、とにかく相手の口元を見ていれば分かることが多かったりする。つまり、各子音の独特の口の形が、文章理解で大きな助けになったりする。
日本では、その側面が少ないから、基本的に日本人は会話をするときに、そこまで相手の口元を見ていない。どちらかというと、相手の顔を見るときは、相手の目を見れとよく言われる。そのためか、日本のキャラクターは、とにかく目が自己表現が激しく描かれることが多い。キラキラしていて、大きな目がよく描かれる。
まあ、こんな感じで、こういったところにも日本人が英会話が苦手な理由があったりするわけだろう...。