子安宣邦『天皇論』

今回のアサクリシャドウズについて、UBIは公式ガイドブックの日本語版を作らないんだね。いや、今まで作ったことなんて、一度もないんだろうけど、日本が舞台で日本語版を作らないって、もう完全に、このゲームを日本人に向けて売るつもりのない「内容」だって言っているのと変わらないわけだw つまり、弥助という黒人の主人公を、世界中の黒人があたかも自分が弥助になったかのように主人公として弥助を操って、日本人という

  • 野蛮人

を殺して殺して、殺しまくって、「すっきり」「気持ちよく」なって、<大量の大虐殺>を楽しむゲームだと、正直にばらしているのと変わらないよなw 弥助が侍かどうかで、いろいろと日本の歴史学者が登場してきたけど、奴等がこのゲームの「正体」に気付いたとき、どんな反応をするのか楽しみだねw
ところが海外では、日本のように「天皇」がないから、直接に、「多様性」「LGBT」が戦場の舞台となってしまう。これはどっちの世界がいいのか簡単に言えないような、まったく別の形態の

  • 抑圧

となっている、ということなのだと思っている。
ところで、日本ではほとんど話題になっていないけど、このアサクリシャドウズ事件では、とても奇妙な現象が起きている。

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ようするに、このアサクリシャドウズ事件では、完全に、中国、韓国が

  • 日本の味方

だということだ。あれだけ、日常的に中国や韓国と日本が喧嘩をし続けてきたのに、なんとこの話題では、中国、韓国、東南アジアが完全に「一枚岩」で統一戦線が作れているw 共闘している。さすが、フランス企業のUBIソフトだよ。こんな、誰にも不可能だと思われることを実現するなんてね。まあ、パリオリンピックを見ていれば、世界中の国が反フランスで団結しているんだけどねw
しかし、こうやって考えてみると、なぜ日本が隣国の中国や韓国とずっと喧嘩をしているのかは、そんなに自明なことじゃない。そういった側面について考えるという意味でも、今回のこの弥助問題というのは、いい機会なんじゃないかと思わなくはないわけだ。
たとえば、こうやって欧米でいま席巻している、「リベラル」「多様性」戦争になぜ日本は、ほとんど巻き込まれていないのか、なんだよね(スクエニとか一部で、篭絡が始まっているが)。日本のアニメが、かなりの割合で、ポリコレ系コンサルの毒牙から免れているわけで、もう、ディズニーとかと比べても、明らかに違うわけじゃない。なぜこれができているのかを考えると、私はいい意味でも悪い意味でも、そこに

がある、ということをこのブログではずっと言い続けてきたわけね。三島由紀夫全共闘に対して、「一言、お前たちが<天皇>と言ってくれれば、私はお前たちと共闘できる」と言ったのは、

ということを意味しているわけ。つまり、なにをやってもいいし、なにを言ってもいい。だけど「天皇への侮辱」だけは絶対に許さない。しかしこのことが、日本の言論空間を、隠微な暴力によって支配している。日本のアニメも、なんでもありのアナーキズムに見えて、絶対に天皇への侮辱と解釈されかねない記述は絶対に出現しない。

「朝鮮は自国の天下を隠して大天下に寄り添い小中華にアイデンティティを求めた。それに対し、日本はダブル・スタンダードを放棄して最後には鎖国を断行し、主観的ではあるが日本を中華とする完結した小天下を築き上げた。一方、ベトナムはあくまでもダブル・スタンダードを堅持して、小天下と大天下を使い分けることに国家存立の基礎を置いた。大天下では夷として恭順な態度で中国に接し、小天下では周辺諸国に中華として挑んだのである。」
これは中国の「皇清の大天下」の形成が東アジアの周辺諸国のいかなる対応的な国家展開を導いたかを示す優れた歴史的記述である。

日本の皇国史観を作ったのが本居宣長であることを疑う人はいないだろう。しかし彼が生きた江戸時代中期は、秀吉によるバテレン追放や刀狩りが終わった世界だ。そこにおいては、日本は

  • 小天下

が国家イデオロギーとなった。つまり、まったく中国と同じ政治体制でありながら、中国との繋がりや干渉を拒否する。そうすることで、「内的」には、自らが「天下」であるかの気分にひたれる。そして、そういった国内政治の文脈で、本居宣長は自らの役割を演じる。

『弁道』『弁名』という徂徠による既成儒学概念の解体とその古学的再構成はきわめてあくどい形で宣長に学ばれていく。代表的には「聖人」概念である。徂徠は「聖人」とは「制作者」であるという。
「聖とは作者の称なり。楽記に曰く、作る者これを聖と謂い、述べる者これを明と謂うと。表記に曰く、後世作者有りといえども、虞帝には及ぶべからざるのみと。古えの天子は、聡明叡智の徳有りて、天地の道に通じ、人物の性を尽し、制作する所あり、功は神明に侔(ひと)し。利用厚生の道、ここにおいてか立ちて、万世その徳を被らざることなし。」(『弁明』「聖」第一則)
徂徠は「聖人」を人間の祭祀的・社会制度的・文化的体系の「制作者」だとする。この聖人概念の革新から、新たな社会哲学的儒学としての徂徠学の展開もあるわけだが、宣長はこの徂徠による聖人概念の革新から強い権力意志をもった制作者=聖人による詐欺的支配からなる社会を<漢>に想定していくのである。

宣長は中国の「美点」「良いところ」を

  • 全否定

していく。それは上記の「聖者」概念によく現れている。中国において、「良い」こと、「徳」と考えられているものを、まさに、

と似たものを使って、それが「まことの心」からのものでないという理由によって、全否定していく。とにかく、宣長にあるのは、「中国は偽物」「中国はいらない」といったような、まさに明治以降の日本人がずっととり続けてきた、排外思想だ。
そして、その返す刀で宣長が「発見」するもの、つまり

  • 真の日本

こそが、古事記だ。そこに宣長は、「中国に汚されてない」真の日本の姿を見つけようとする。
しかし、である。言うまでもなく、古事記とは日本書紀の類似品だ。そもそも古事記日本書紀と同時代のものなのか、後世に作られたトンデモ本なのかは知らないがw、少なくとも言えることは、古事記日本書紀とまったく同じように、当時の天皇制の黎明期に

  • 中国の天子概念の延長に構想された「天皇」概念

として、つまり、中華思想の「類似品」として作られたものであることは明らかなわけであろうw

宣長天明5年(1785)に藤貞幹の『衝口発(しょうこうはつ)』に対する激しい論駁書『鉗狂人(けんきょうじん)』を著している。「鉗狂人」とは狂人に鉗(くびかせ)をかける意であって、書名からもその論駁の激しさが理解される。そしてこの宣長の論駁を上田秋成が批評したことから両者の間に国学史上著名な論争が展開されることになる。では宣長の怒りを誘った藤貞幹の『衝口発』とはいかなる書であったのか。藤貞幹は『衝口発』の「国史」の章で、「日本紀を読ば、先此国の事は、馬辰の二韓よりひらけ、傍弁韓のことも相まぢはると心得、それを心に忘れず読ざれば、解しがたし。古来、韓より事起こりたることを掩たることをしらず。此国きりにて、何事も出来たると思ふ故、韓の言語を和訓とす。様々に説を立、終に其意を得ることなし」というように『日本紀』の成立の時期にはるかに先立つ時代の日本社会を藤貞幹は韓文化・風俗とその言語の影響下に、あるいは支配下にあったものとみなしている。そして『日本紀』の編纂事業に象徴的に示されるような日本古代国家の自立的な展開過程はその事態を掩蔽し、あたかも『此国きりにて、何事も出来た』かのようにみなそうとしているというのである。
記紀』において神話的に語られるこの国の先史時代を藤貞幹は後漢時代の中国の政治圏に属する朝鮮半島の、そこに成立する三韓馬韓辰韓・弁辰)の歴史過程に読み替ええいこうとするのである。さらにこの国の言語についても、「本邦の言語、音訓共に異邦より移り来者也。和訓には種々の説あれども、十に八九は上古の韓音韓語、或は西土の音の転ずる也......秦人の言語、韓に一変し、又此邦に一変し、今此を求るに、和訓に混じて分別しがたし」というのである。この発言に示されているのは、日本列島に成立する固有言語(やまとことば)が存在していたことの証を『古事記』に読み取ろうとする宣長の言語観に真っ向から対立するような古代言語観である。宣長が「鉗狂人」(狂人にくびかせをするの意)といった度を逸した罵言をタイトルにした書をもって対応せざるをえなかったいぇんである。

あのさ。天皇って、韓国人なんじゃないの? そうじゃなかったとしても、当時の文献を見れば、多くの交流があったことは明らかでしょ。日本人がやたらと、韓国人がいろいろなことに「韓国が起源」と言いたがることを笑い者にする動画とかがあがっているけど、心の奥にはこういった可能性に対する怖さがあるんじゃないかと邪推したくなるんだよね。
そもそも、さ。なんで、平成、令和に入ってから、日本の左翼が天皇への「敬意」を示すようになったかって、天皇こそが戦後、最も今の日本国憲法を守ってきたからだよね。天皇家はずっと、靖国への参拝を拒否しているのも、当時のGHQとの約束を守っているとも言えるけど、それ以上に、戦後憲法の理念を生きてきたからでしょう。そしてそれに対して、日本の右翼は

を願って活動してきた。そして、そういった連中が日本会議に集まっているし、それだけじゃない、そういった理念を、統一教会のような連中が「礼賛」する形で、日本の右翼運動の実質的な活動部隊として、利用してきた関係になっている。
結局、本居宣長という人物をどう考えるのか、なのね。彼はとにかく、中国全否定。中国にもいいところがある、という主張をとにかく絶対に認めない。その延長で、古代日本の韓国からの影響を類推した論文を

  • 狂人にくびかせをする

というタイトルの反論を書くような、天皇原理主義者。まあ、典型的な戦前の日本軍人だよな。少しでも天皇の正統性を疑うようなことを言うと、怒髪天をついて怒り狂って止められない。まあ、戦前の小学校は、天皇の写真に向かって子ども全員に土下座をさせていたわけで、日本とはつまりは、そういう国

  • だから

こんなに<平和>で犯罪が少ない、とも言えるわけ。でもさ。考えてみるとこの「小中華」という、本居宣長がその心の根底に宿していた思想は、ある一点において、その出自に疑問があるわけ。それが、

  • なぜ彼らは、白人と戦おうとしなかったのか

だろう。宣長は終生、中国と韓国に罵倒し続けたわけだが、なぜか彼はヨーロッパに対してその敵意を向けない。なぜなら、その当時の江戸時代は、すでに秀吉によるバテレン追放令が行われて、欧米が脅威じゃなかったからだ。つまり、彼には欧米が見えていない。
でもさ。こうして、UBIソフトっていうフランスの企業が、日本文化、つまりは、東アジア文化

  • 攻撃

してきて、わざわざ当時実在した黒人を主人公にして、彼だけをコントロールして、現地の日本人を

  • 野蛮人

だからと、いっくらでも殺していい「おもちゃ」として、好きなだけ殺しまくることをやらせる、ナチス・ドツがやったユダヤ人大量虐殺にも匹敵するような「大虐殺」ゲームを世界中の黒人に売るってわけ。じゃあ、そんな黒人の弥助に当時の日本人は抵抗できたか? できるわけがないw なぜなら、黒人の弥助はなんと、「織田信長の懐刀の侍(さむらい)」だから、というわけw つまり、日本の百姓は、侍を目の前にしたら、土下座をして、はいつくばらなきゃいけないから、黒人の弥助はその、なさけない百姓たちの姿を見て、笑いながら、次々と大虐殺を「楽しむ」。なんと、フランスの開発者によると当時の日本には、全員が刀で首を切られて死んだらしく、

  • そういった日本の<文化>を尊重するため

に、「どうしても」黒人の弥助に日本の百姓を大虐殺させる必要があったんだってさ。あーあorz
当たり前だけど、もしもこれを日本に許したら、同じものを、中国、韓国、他の東南アジアの地域の歴史舞台を使って、ゲームとして売るからね。つまりこれは、

  • 東アジアと欧米の<文化戦争>

なわけね。しかも、日本人の歴史考証を一切受けないで、トーマスロックリーを始めとした、エセ日本を世界に広めようとしている外国人の内輪だけで、日本の文化を作品内で使って、

  • 日本文化をさんざん作品内で盗用するやいなや、それらをフランスで著作権申請して、自分たちからの許諾なしに日本文化を日本に使わせない

とか言ってくるってわけだろw 恐しいな...。