ジョン・スティルウェル『逆数学 定理から公理を「証明」する』

大学に入った時、まず、最初に数学科で習うのが、解析学線形代数なのだが、その解析学の教科書として使っていたのが、

杉浦光夫『解析入門1』
解析入門 ?(基礎数学2)

であった。そして、この最初の方の章の最後の練習問題で、いわゆる

  • 実数論

と呼ばれるような話題が取り上げられていて、つまり、実数の「定義」。例えば、デデキント・カットの定理が、確か、10個以上の(解析学の)定理と「同値」であることを示せ、といった問題が書いてあって、その時思ったのは、つまり、ようするにこれは本当は

  • 実数論

という、群論、体論、自然数論、有理数論、と同列にあるんだけれど、これから、この本で展開していく「解析学」においては、実数というのは、ほぼ

  • 自明

のものとして扱うから、ここでは補題(レンマ)としてしか扱わないよ、という意味だったのだろう、と思ったわけだ。
そして、そのことはもちろん正しいわけだが、かといって、わざわざ、「実数論」と銘打って、一冊の本にしているものも、はるか昔のものを除けば、まず見かけなかったわけで、というのは、結局それって「解析学」だよね、っていうコンセンサスがあるから、まあ、それだけ

  • 抜き出して

一冊の本にするっていうのも、やっぱり変だ、っていう感覚があったからだと思うわけである。
ようするに、ひとたび「解析学」っていうことで、教科書にしようとすると、教えなきゃって思うような

  • 重要な定理

が山のようにあって、そんな最初の「実数論」で本の大半を消費しているわけにはいかなかった、ということなんだと思う。
しかし、もう少し、「教育カリキュラム」的な視点から考えてみると、違った観点が見えてくるように思われる。
それは、最初にも書いたように、大学の教養過程の数学が、解析学線形代数と分かれていることからも分かるように、数学の

  • 分野

も、解析学系と代数系(あと、幾何学系もあるのだろうが)って、ひとまず分かれていて、そうすると、「実数論」の証明のアプローチなんかは、解析学のモチーフなんですよね。少なくとも、代数系にとどまらない。その辺りで、

  • 代数系の専門の先生が扱うのは、勝手が違う

といったような「役割分担」のような感覚が働くのだろう、と思われるわけである。
掲題の本は、数学基礎論の本ではあるのだが、この本の関心の範囲で、数学の歴史を振り返るところから始めている。
古代ギリシアユークリッド幾何学から始まった近代数学は、最初の問題として

  • 平行線の公理

が関心を集めた。

多くの数学者は、平行線の公理をユークリッドの体系の「欠陥」だと考えた。

つまり、この平行線の公理は、他の公理から導かれるのではないのか、と考えていたわけである。しかし、平行線の公理の「反例」を加えた「モデル」が容易に作れることが発見されるなどして(これが非ユークリッド幾何学ということになる)、この平行線の公理が他の公理から「独立」していることなどが分かってくる。
ところで、ユークリッド幾何学の「算術化(=代数化)」は、デカルトから始まったとされているが、それは三次元実座標で、ニュートンのように「絶対空間」をイメージする、というやり方と考えていい。そして、ヒルベルトはこの「古典的なユークリッド幾何学(定規とコンパスで作業をしていく)」と「代数学」との対応を以下のように整理する:

  • 結合の公理
  • 順序の公理
  • 合同の公理
  • 円の交点の公理
  • アルキメデスの公理
  • 完備性の公理

(これらは、アルキメデスと、完備性を除けば、定規とコンパスの話で、ようするに古典的な幾何学の公理。左記の二つは実数の性質の関係で用意されたもので、ようするに、実数と、完備アルキメデス順序体が、同値であることを言っている。)
これによって、以下が証明できる:

ある定理が平行線の公理と同値だという主張に正確な意味を与えることができる。それは、ヒルベルトの公理から平行線の公理を除いた基礎理論で、平行線の公理とその公理の同値性が証明可能だということである。(1.1節で述べたような)平行線の公理と同値だと考えてきた定理はいずれも、この意味で同値である。

上記の、1.1節の話とは以下である:

  • 長方形の存在
  • 異なる大きさの相似な三角形の存在
  • 三角形の内角の和はπに等しい
  • 共線でない3点は円周上にある

さて。似たようなことは、以下のような観点からも、数学に現れる:

集合N、Z、Qは、それらの要素を数え上げることで可能無限になりうるこを示した。これは言い換えると、すべての要素がどこかの段階では必ず現れるような手順を用いて

  • 1番目の要素、2番目の要素、3番目の要素、...

というように集合の要素を列として順序づけられるということである。カントルは、Rにはこのような順序づけが存在しないこと、すなわち、Rが非可算であることを示した。

(これが、いわゆる、対角線論法であるが。)
このことから、カントールは上記の可算順序付けより少し弱い、以下の順序付け「整列順序」が全ての集合において「可能」であることを、一つの公理として(つまり、整列可能定理として)提示する:

カントルは、集合Sの空でない任意の部分集合Tが最小元をもつような順序づけがあるとき、Sを整列集合とよんだ。

ところで、この整列可能定理は、選択公理ACと、ZFにおいて同値なことが知られており、また、ZFにおいて、ACは独立であることが知られている(また他にも、ZFにおいてACと同値な定理が知られている)わけだが、この関係は、上記のユークリッド幾何学における、平行線の公理と同じような、ある種の

  • 階層的

な関係となっていることが分かるであろう。
さて、これと同じようなアイデアで、解析学を(つまり実数の性質を)「階層化」できるのではないか、というのが、掲題の本の主題である「逆数学」である:

  • RCA_0 で次の定理を証明できる。

中間値の定理

  • WKL_0 で次の定理を証明できる。

区間列に対するハイネ-ボレルの定理
⇔ 一様連続性定理
極値定理
⇔ 連続関数のリーマン積分可能性
⇔ ブラウワーの不動点定理
ジョルダンの閉曲線定理
(同値性は RCA_0 の中で証明可能)

  • ACA_0 で次の定理を証明できる。

ケーニヒの補題
⇔ 数列に対するボルツァーノ-ワイエルシュトラスの定理
⇔ 数列に対する最小上界原理
⇔ コーシーの収束判定条件
(同値性は ACA_0 の中で証明可能)

基本的なアイデアとしては、2階算術を使うわけで、ここでの実数は、下方デデキント・カットのこと(つまり、有理数の部分集合)と定義して、ただし、有理数自然数でコード化できたわけだから、結局は、自然数自然数の部分集合だけを元と考える、自然数上の計算可能関数から、公理系を始めればいい、ということが分かる。そうすると、この話は、たんに対象が、自然数から、形式体系に変わっただけで、まったく同じわけである。つまり、この形式体系の、それぞれの計算可能関数って、結局は

ということなのだから、同じように「対角線論法」が使えるんだよねw

このことからすぐさま、算術的に定義可能な集合すべてからなる列を算術的に定義することは、これらの集合を定義する論理式をどうにかしてすべて列挙することができたとしても不可能であることがわかる。

さて。最初の話に戻ると、杉浦先生の『解析入門1』の練習問題の、10個以上あった、実数の定義の同値問題は、それだけだとつまらなくて、そこにある

  • 階層

が、こういった形で示されることを求められていた、ということになるのであろう。
数学の証明を見たときに、それが、どういった定理を使って証明されているのかを見返すことで、その定理の

  • 根底性

が分かる。より基本的な公理しか使わずに証明できるのか。それとも、より独立性の高い公理によって、やっと証明できるのか。その深さを、たんに数学の証明を読んでいるだけの人は気にもしないかもしれないが、実際に、新しい定理を探している人は、細かく意識している。そういう意味では、こういった、ユークリッド幾何学における、平行線の公理に代表されるような、数学の考察は、はるか昔からの、数学の研究スタイルとしては、

と言ってもいいものがあるのかもしれないが、逆に言ってしまえば、こういった態度は、究極の数学の「アマチュアリズム化」。ほとんど、数学の最終形態の態度と言えるのかもしれない...。

逆数学:定理から公理を「証明」する

逆数学:定理から公理を「証明」する

牧野英二『カントを読む』

掲題の本は、まあ、カント論なのだが、副題が「ポストモダニズム以降の批判哲学」とあるように、現代思想への、カントの影響をにらみつつ、まあ、現代の事象に対する批評を行っている、といったところが特徴だろうか。
しかし、その場合、どうしても避けては通れないのが、カントにおける

  • 物自体

をカント以降の哲学者が、どのように解釈してきたのか、ということになる。
その典型が、カントと同時代のヤコービの主張であるが、これは、カント以降の世代の、ドイツ観念論ヘーゲルフィヒテシェリングなどにとっての

  • 常識

となった認識なわけで、いわばカント哲学は、こういった「無理解」の中、現代まで、引き継がれている、という特徴があることに注意がいる。

すでにみたように、カントは一方では現象だけが唯一の対象であり、「物自体」は認識できないと言いながら、他方では現象の根拠とか現象の原因という表現を使用して、この対象について語り、「物自体」がなければ現象の存在は不可能だ、と言い続けてきたからです。
そうすると、そもそも知ることのできないものについて、それは存在するということがなぜ言えるのか。そして表象の原因、現象の原因などの原因・結果のカテゴリーは、カントみずから禁じたルールに違反するのではないか。つまりカテゴリーを現象にだけ使用でき、適用可能だといったはずなのに、「物自体」に対してカテゴリーを使用するという不整合を犯している、というわけであります。

ヤコービの主張は、現代の科学者がカントを批判するときにも使うレトリックだ。
前者の、知ることができないものの「存在」を語れない、というのは、まさに「科学」の手法であろう。この場合、経験できないから、その「存在」を云々することには意味がない、というのは、もしもそれが「現象」であれば、それそのもの自然科学の話であるわけで、合理的なわけだが、カントがあえて、

  • それ以外

のところに、つまり、形而上学という場所に、この概念を置いているわけで、だったらたんに、自分の立場は自然主義だ、と言えばいいだけなのではないか(後者については、以下で検討する)。
ほぼ、ヤコービと同様の理由で、カントの物自体の概念の

  • 廃棄

を主張したのが、分析哲学者のストローソンだ。

この概念は「触発」という困難な問題とも関連しますが、この問題をドイツ観念論とは対照的に内在的に、経験的な地平に即して批判的にカントの経験の理論を再検討した優れた試みのひとつとして、現代のイギリス哲学界を代表するひとりピーター・ストローソンの『意味の限界』(一九六六年)を挙げることができます。ストローソンは、経験の可能性をめぐる問題について現象と実在との対比、対立を有意味に適用するための普遍的な制約はなにかという疑問を投げかけています。また現象と実在、現象と「物自体」の対比を外的知覚に適用する場合、この普遍的な制約、カントの言葉で言えば、時間・空間やカテゴリーという形式的な条件が満たされているかどうかという問題を提起しています。この問題意識から出発する場合、人間は何らかの仕方で現象と「物自体」の関係を知覚し認識できなければならないはずです。ところが「物自体」といわれるものは知覚からは独立して、それ自体で存在する実在であるという前提ですから、そのかぎりでは「物自体」を知覚によって認識することは不可能になります。
また「物自体」による触発といわれる事態も、人間には認識できないわけですから、人間の知覚は仮に「物自体」によって触発された結果であるとしても、その原因を認識する手立てはありません、カテゴリーが意味をもつような使用は、時間的・空間的な枠組みのなかでだけ可能なので、対象による触発という影響関係については、人間の感覚や神経装置に及ぼす科学的な因果的説明による以外に論ずることはできない、というようにストローソンは批判しています。したがって、カントは「物自体」と現象という区別が意味をもつように概念を適用するための制約を満たすことに失敗した、という結論に到達しました。

ようするに、ヤコービもストローソンも、カントから言わせれば、物自体を

  • 現象

と「同じ」に扱うことを、まるで前提にして議論している(そもそも、経験主義は「経験」しか対象として語れない)というところに特徴があるわけで、ようするに、

  • 物自体を<もう一つの別の現象>

  • カントは言っているはずだ

という思い込みで、全てが語られているわけだ。これでは話がかみあうはずがないと思わなくはないが、以下のアリソンのように、だったら、物自体を現象の

  • 別の側面から見た、同一の<なにか>

と割り切っちゃえばいいのか、というとについては、そう言われると少し、もにょる面があるわけで、難しいわけだ。

実際カントは、現象としての対象と超越的な対象である「物自体」という二つの対象の存在を主張したわけではなくて、異なる二つの観点から意味づけられた唯一の対象が存在することを言おうとしたことも否定できません。この点に着目すると、現象と「物自体」は、同一物の二つの名称を表わす概念とみた方がよいという解釈が出てきます。たとえば、近年の内在的な解釈者のなかには、英米系ではヘンリー・アリソン、ドイツ系ではゲロルト・プラウスに代表されるように、カントの「物自体」の可能性整合的に評価する研究がみられます。
アリソンは、二重の観点ないし二つの記述の見方の立場に依拠して、現象と「物自体」という区別をしつつ、同一の実在についての説明を行なっています。したがって現象と「物自体」の違いは、同一の実在を考察する二つの方の違いにすぎない、と主張しています。また、触発の問題が一種の因果関係とみられる問題についても、表象の原因とか根拠という表現の意味は、純粋に方法的な意味に考えるべきであることになりましょう。要するに、同一のものをそれ自体として記述したのですから、この場合のそれ自体とは、感性との関係、時間・空間と分離されたという意味になります。ですから、カントの言う超越的なものとは異なり、われわれにとってという意味が消去されるわけではないのです。こうして、同一物が他方が現象の記述であり、一方は「物自体」の記述を意味するという解釈が成立するわけです。

上記の引用にあるように、このように考えれば、ヤコービの批判の後半にあった、

  • 現象が、別の<もの>である、ある、物自体の「原因」である

といった記述を行う理由はなくなるわけで、同じなんだから、それを「原因」関係で語るのは変じゃろ、っていうのはいいんだけれど、しかし、こういった解釈をそのままにリテラルに読むと、まるで

  • 物自体は、なんらかの意味で「分割」されていて、現象との「一対一」関係が成立している

といったように読めるわけで、難しい。ここは、こんなふうに考えればいいのかもしれない。量子力学で、素粒子は、まるで

  • 非局所的

な関係を示すときがある。こうした場合、その「分割」ってなんだ? こう問うわけである。
ようするに、物自体が、どうなっているなんていうことの

  • 一切の情報

は人間は取得できない、とカントは言うんだから、そうだと考えるしかないわけである。むしろ、なんらかの関係があっちゃいけないわけである。
うーん。
こうやって考えていくと、そもそも、「物自体」というものを、どうこうである、と言うこと自体に意味があるのか、といった

  • そもそも論

にまで遡って、問題提起がされそうになってくるわけであるが、おそらくそのことは、カント自身も分かっていて、カントは物自体をもっと広い<何か>として、いろいろなところで語っている、というのは間違いないわけですよね...。

ではパースは、「物自体」の実在性を完全に切り捨てるかというと、実はそうではありません。パースは認識可能な現象と認識不可能な「物自体」という、カントによる超越論的区別に代わって、現実に認識されているものと無限界に認識可能なものとしての実在という区別を導き出してきます。これはパース独特の記号論的に変換れた認識論の立場であり、カントのように直観と概念、感性と悟性、あるいは多様な質料とそれを秩序づける形式という二元論とは異質な形で無秩序なままで与えられ、それを人間の知性の働きが秩序づけ法則的な認識を成立させるという見解がありました。
ところが、パースではこうした質料と形式の総合的統一によって認識が成立するのではなくて、記号による表象作用、したがって推論によって実在に関する真なる見解を獲得していくプロセスに認識のあり方を見いだしていくわけです。ですから、カントと対比させて表現すると、カントにとって認識を成り立たさる最終的根拠は、統覚の統一の働きを表わす「われ思う」という主観の働きに帰せられるのですが、パースの場合には、実在性の規準および真理の規準は、客観ないし物理的対象を探究する研究者間の共同体内部での最終的な意見の一致に帰着するわけです。これはいゆる真理の合意説の立場になります。

カントでは実在性問題は、現象概念が「物自体」の概念要求するかぎり、現象のレベルにとどまらない射程を有しています、ところが、パースの場合には認識問題はどこまでも判断者間の合意形成のプロセスにすぎないわけです。したがって、真理問題も認識主観と客観との一致とか、実在物に対する指示という関係ではなくて、どこまでもカントが主張したいわば半分、つまり判断者間の普遍的な伝達可能性に即して考察されることになります。

ここでのパースの解釈は、言わば、そのカントの多角的な「物自体」に対してもたせた意味の

  • 一つの側面

にのみ集中して、その解釈を行ったということになるのであろうが、これはこれで、そこまで間違っていないわけである。
いや、もっと言うことができる。
つまり、以下のように、カントの物自体を「他者」論として読み込む、という立場である。

最後に、他者論との関係からもう少し「物自体」について言及してみたいと思います。批判哲学の論理的な首尾一貫性を考慮すると、超越的な「物自体」の実在性は捨てるべきであるという見解は、パースとは別の立場からもありえます。現に新カント派おマールブルク学派の代表者、ヘルマン・コーエンは実在物としての「物自体」を廃棄して、「物自体」という概念を重要な学問的な概念として尊重していきます。つまり「物自体」とは科学的認識の総括であり、「物自体」は、科学的な知の課題を意味すると主張しました。実は「物自体」は課題であり、限界概念であるという見解は、すでにカントにあった考え方です。

ところでこのような解釈をする場合でも、実在性の問題を完全に消去することはできないはずです。人間が認識を進めていくうえで、学問的な認識のみならず、人間の行為や社会生活や国際政治の場面を考えたとき、「物自体」や触発の問題は、「他者」とその抵抗や実在性の問題と切り離すことはできません。真理の合意説を採用するにしても、学問的認識を探究する場合でも、その主体は、自己にとって他者である人間に対して応答を求めて働きかけ、同意を形成しようとするだけでなく、他者の見解に対抗し、他者の意志に抵抗していく存在者でもあります。こうした他者は、自己との同型性を欠く非対称な実在性をもつ不可知の「物自体」である、と言うことができます。たしかに学問的な認識活動にとっても、共同研究のパートナーとして他者からの働きかけや相互承認が必要であります。人間の知識や行為、信仰などの営みは、総じてたんに主張された判断や行為の正当化にとどまらず、何らかの意味で実在との対応や他者との応答を希求するものである、と考えることができます。

こういった解釈がなぜ現れるかというと、ようするにカントのコペルニクス革命。つまり、

  • 客観

の問題を考えると、どうもカントの意図において、なんらかの多角的な、多くの主体の意図の「重なり」のようなものをイメージしていたんじゃないのか、といった解釈は、どうしても出てくるから、なのであろう。
そしてそれが、じゃあ、どこまで間違っているのかということになると、後の、実践理性批判以降のカントの物自体の扱い方を考えてみても、まあ、それなりに正当性を考えられるんじゃないのか、とは思えるわけで、つまりは結局どういうことなのか、ってなるんだろうけれど、まだ、カントの物自体が

  • なんなのか

の解釈は決着がついていない、ってことなんですかね...。

カントを読む――ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波人文書セレクション)

カントを読む――ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波人文書セレクション)