佐天涙子の涙

私は、暴力というものを抽象的に考えるとき、それが「問題」だ、ということを前提で書いていたような気がする。しかし、そういったフレームを適用すると、今度は「なぜその人が暴力をふるうことを選択することになるのか」の「原因」の分析が曖昧になる。
南アの下層階級がなぜ、犯罪を犯すのか。もちろんそれを、そいつの性根が腐っているからだ、と言うことは、簡単であるが、犯罪とは、法律ゲームの網の目で、なんらかのアクターを演じることを意味するにすぎない。
日本のある森を、グローバルマネーが買った。しかし、彼らは、焼畑ビジネスを基本ポリシーとしていたとする。木をかたっぱしから、切り取って、育樹をしない。やったとしても、それは、素振りだけ。売り切ったら、そんな土地「捨てて」、トンズラ。地下水も、完全に吸い取り尽して、もういらなくなったら、産廃捨てて、トンズラ。「別に俺ここでいつまでも生活したいなんて思ってないしー。それに、こっちの方が完璧もーかるじゃねーか」(今の日本の法律でも、山林をきったら、一応植樹しなければならないことにはなってるようですね)。
しかしそれは、結局のところ、だれが所有しようと、起きうることだとも言える。みんな資金繰りが苦しくなれば、どんな鬼畜の所業も魅力的に思えるでしょう。
アニメ「とある科学の超電磁砲」において、このり先輩の活躍する回は、不思議な感じのする内容であった。スキルアウトと呼ばれる、街の「不良」たちが、「善良」な学園都市の学生たちを襲う。なにが、異様なのか。そもそも、こういった不良がストーリーの全面にでてくることが、この回までなかったからだ。
この事情を考えるには、一つ注意が必要である。
このアニメの舞台である、学園都市は、言わば、「超能力」が現在の日本の学校で言う「勉強」と対応してるところがある。と言うか、明らかに、制作側は、そのアナロジーを意識させようとしている。
勉強ができるできないは、今の日本を考えても、「究極的に」クリティカルな面がある。子供に将来の夢を語らせるのが、学校社会の慣例だが、それは「その子供が勉強ができるから」実現できる夢である。勉強ができて、いい学校に行けるから、でかい会社に就職できて、いろいろ夢を実現できる。最初から、このゼロ年代をサバイバルすることが前提というわけだ。
そういう意味で、主人公の御坂美琴(みさかみこと)は、露骨に「エリート」と言っていい。そもそも、ここまでの「エリート」が露骨に主人公をはっているアニメというのも、めずらしい。
最初からウザいのだ。
(このアニメは、ライトノベルと呼ばれる、エンターテイメント小説の「とある魔術の禁書目録」からのスピンアウトとなっている。こちらの方では、主人公は、上条当麻(かみじょうとうま)、という「相手の能力を打ち消す」(ただし、その能力については、学園側もよく把握していない印象があるが)だけで、完全な落ちこぼれグループに所属している形となっていて、むしろこのスピンアウトが無理があるのだろう。)
固法美偉(このりみい)は、今はこの学園の風紀委員(ジャッジメント)をしているが、昔は、黒妻綿流(くろづまわたる)がリーダーのスキルアウト(無能力者)の不良グループの「ビッグスパイダー」の連中とつるんでいた。自分が能力者であることを隠して。しかし、なぜそうだったのか。そこには明らかに、
超能力(この学園都市) - 勉強(現代の日本社会)
の対応関係が意識されている。
不良たちは、別に「良く不(な)い」わけではない。彼らがどんなライフスタイルを選ぼうと、そのことが、「犯罪ではない」はずだ。
しかし、統計的に考えれば、明らかに、彼らは「危険」ということになる。犯罪を犯している実際の割合が高ければ、それは一つの傾向ということになるだろう。しかし、そういった比較はフェアでない。この学力社会で、「無能力者」という烙印をさまざまに社会のいろいろな人からレッテルを貼られ続ける彼らがディプレッシブにならないと考える方が「どうかしている」。もちろん、「お前の努力が足りない」だとか「がんばっている奴らはいる」とか、なんのフォローにもなっていない。そういう意味では、彼らは分かりすぎるほど分かっている。むしろ、彼らに必要なのは、そういう「侮辱」が当然だと「思っている」お前らから、自分を「隔離」してくれる、アジール空間なのだから。
そういう意味で、このアニメには「陰の主人公」が存在することになる。木山春生(きやまはるみ)という悩研究者が小学校の先生をした頃の生徒たち、と、(もちろん)
佐天涙子(さてんるいこ)
である。前者は、チャイルドエラーと呼ばれる、言わゆる、捨て子、でこの学園都市が面倒を見ている子供たちとなる。この学園都市が、超能力を開発することをその「目的」として、存在することは何度も語られるが、その「大人の世界」に属するはずの、「政治制度については最後まで見えてくることはない」。一種の、コンピュータ独裁が機能する未来社会といった感じなのだろうか。その子供たちは、「自分はこの学園都市に育ててもらったから、いつか、この学園都市に恩返しがしたいんだ」。しかし、彼らが「なぜ生かされているか」。それも、この学園都市の「目的」のため。きやまは自分が知らないうちに、子供たちを実験のモルモットとして使う研究に参加させられていることを知り、悩むことになる。
そもそも、なぜ、こんな学園都市が作られ存在するのか。それは最終回で示唆されるのだが、そういう意味では、この学園都市の生徒たち「そのもの」が、全員「モルモット」だとも言える、ということになるだろう(国家ロイヤリティ絶対主義者にとってみれば、日本人とは、日本の実験道具「モルモット」となるというわけだ)。
佐天涙子(さてんるいこ)と、御坂美琴(みさかみこと)は、微妙な距離である。黒子と初春(ういはる)というジャッジメントのパートナーを間にはさみ、親友をはさんだ、友達となるが、アニメ版では、佐天(さてん)さんは、微妙な感情をにじませる。
佐天さんは、御坂に、いつもかばんに付けている、お守り、について聞かれる。母親が彼女がこの学園に来る前にくれた、お守り。彼女は、聞かれてもいないのに、お守りなんて「非科学的だよね」と、(超能力都市という)科学都市にふさわしくない、このアイテムを御坂に向かって皮肉る。「ばかな母親だよね」。御坂は言う。
「能力なんて関係ないじゃない」(勉強なんて関係ないじゃない)。
佐天さんは、その一言に、ただ目を伏せて手を強く握りしめる。それは、ほかならぬ、学園一の「エリート」御坂の口から言われるからなわけですね。
彼女は一人自分の下宿の部屋にこもり、体育坐りで膝に顔を埋めて、このお守り、を握りしめる。
自分はこんなにがんばってきたのに...。
まだ「無能力者」...。ママの期待にこたえられない自分...。それは、この「超能力」開発を「目的」とした学園において(この日本という学歴社会において)、存在を否定されていることと同じなのではないか...。

平野秀樹『奪われる日本の森』

(安野喜憲、という人との共著。最初、共感的に読もうとしていたのだが、だんだんと、この執筆姿勢についていけなくなっていった。)
田舎に行って、外を眺めれば、年々、商店街は廃れ、街は、どんどん、ゴーストタウンのようになっていっているが、あいかわらず、山は四季おりおり、美しい景色を見せてくれる。
ああ、ここだけは、いつまでも変わらないな。
田舎へのあこがれは、いつまでも変わらず、いつか、こんなスローライフを夢みる、というわけだ。
ところが、実は一点、完全に「変わってしまっている」。
その山は「誰の物」?
つまり、所有権、である。日本は、資本主義なんですから、当然、あらゆるものに、私的所有権があります。だから、相続税など、税金を課すこともできるというわけなのでしょう。
山だろうが、川だろうが、それが、だれかの所有の土地を横切ったら、そこから、「なにをしてもいい」。だって、そいつのものなんだから。涸れるまで、水を汲み上げても「いい」。切れるだけ木を倒しても「いい」。ばらまけるだけ、産廃をばらまいても「いい」。だって、そいつの土地なんだから。
山などの、農地や住宅地以外の土地の、売買の情報は、あまり、表には出てこないそうですが、全然木や水と関係のない日本の企業が、買っている例もあるというし、ハゲタカ外資も、理由は分からないが、買っているんじゃないか、と著者は考える(不動産なので、登記をいろいろ細工すれば、よくわからなくできるということなのだろう)。
ただ、著者によると、世界の国々の多くは、そこまでの「所有の自由」を認めていない、という。

アングロサクソン系(英国系)では、土地は本来、王のもの、神のものであるという意識が根強い。土地や海洋は「crown land」なのだ。
欧州でいちばん土地私権が強いとされるフランスでさえ、土地は公的に有利な利用がなされるべきもので、それゆえ、我が国に40万ヘクタールもある耕作放棄地などフランスではあり得ない。土地収用権も強く、ユースホステルの建設でさえ、「公益」的利用として土地収用の対象となる。ゴネ得は許されず、収用裁判所が裁く。

ここから、著者は、より国家側に土地の所有権の比重をシフトさせるべきだ、となる。
実際、世界中をみると、土地の私的所有権は、さまざまに制限されている場合が多い。土地は、国家(王家)のものであり、国民の「所有」とは、あくまで、借りているだけだ、という思想であり、イギリス、ドイツ、などはこれに近いそうだ。
日本の近代化が、フランスの大きな影響下にあること、ナポレオン法典が重要な役割を演じたことは以前書いた。日本は、世界でもフランス革命の伝統を正統に継ぐ「近代国家」だということになるのだろう。しかし、ことこの、土地の所有に関しては、本家のフランスでさえ、最近はさまざまな制限が行われていて、ここまで、野放しなのは日本ぐらいということが著者は言いたいようだ。
もちろん、著者の意図は、ハゲタカ外資を日本から駆逐することである。たとえば、対馬は、韓国とも関係の深い、ところであるが、近年、韓国系のマネーが次々、土地を買っているということだ。ホテルでも建てて、韓国人向けの観光ビジネスでもやるのか。もともと、韓国は、自国の領土をさらに広げたいという欲望があるだろう。言ってしまえば、その島の隅々まで、韓国政府が「買えばいい」。そうすれば、もうそこは「韓国領土」(のようなもの)だ。だって、「自分の土地でなにをしたっていいのだから」。
もっと言えば、最近は、水戦争が激しい。世界中で木材需要も日に日に強くなる。よく考えてみれば、先進国の中で、これだけ、森が保存されているのは、日本とアメリカくらいじゃないか。韓国も中国も山なんてない(ようなもの)だ。みんな、成金長者が、目先の金儲けのために、かたっぱしから、切り倒して、もうはげ山しか残っていないわけだ。しかし、そんなものなんじゃないか。資本主義とはそういうことなんじゃないか。今日、温まる、薪が欲しいのだ。エネルギー源が欲しい。そうやって、外を見れば、ぽつねんと、木が立ってる。切るしかないでしょー。そして、はげ山。なにが悪い。
こうやって、世界中、どこもかしこも、砂漠だらけである。よく考えてみれば、人間が生活するとは、そういうことであったのだ。自然をむさぼり尽して、砂漠にして、ばかだなーと思うかもしれない。しかし、そうやって儲けた奴らは、この土地が不毛となったとたんに、こんな土地おさらば、である。いつまでも、ここで未来永劫、子々孫々、暮していきたい「じゃないのだ」。
そうやって、地球中を砂漠と産廃放射能で人が暮らせない大地ばかりになった、最後の大地。ノアの方舟が最後にたどり着く未開の地が、日本だということになるのか。しかし、すでに、その日本の大地は、中国人が「全部買っちゃった」。日本の皆さーん。日本の大地はすべて中国人のものになりましたんで、今すぐ、荷物まとめて、とっとと「中国から」出て行きやがれ。
こうして、日本人は、ユダヤ人のように、流浪の民となる、というわけですか。
でもね。
これ読んでると、だんだんムカムカしてくるんですよね。アフリカの本を読んだからかな。結局、日本の話しか書いてないんですよ。変だと思いませんか。
おい、日本人。日本の大地を買うのは、いいとしよう。実際、それによって、日本の経済は、間違いなく、活発化したはずだ。なんてったって、日本の土地を私物化できるのだ。なにをしてもいいのだ。そのことによる、経済効果は計り知れなかったのではないだろうか(いろいろ公害問題もありましたよね)。このことが、日本の自由経済のドライブを徹底的に押し進めたはずだ。
それによって金持ちになった日本人が何をやったか。
世界中の土地や資源を買ったんでしょ。特に、発展途上国の資源埋蔵地域を。
自由主義の名のもとに、発展途上国に、土地や資源の自由化を押し付けておいて、いざ、自分の国が狙われると、「待った」ですか(待ったは何回までですか)。
そうやって、世界中を買ってきたんでしょ。これからも買いまくるんでしょ。
そもそも、ハゲタカ外資とか言うけど、お前は、外資じゃないって言うんかよ。お前は、確かに国籍は日本のようだし、忠君愛国をのたまう、超保守。しかしお前の活動の原資は、どうして、外資じゃないって言える。
都合のいいときだけ、忠君愛国を語ってみても、てのひら返せば、ぶっちゃけ、自分の懐が温まること「前提」。
確かに、日本は世界中から、原料を買って加工して、世界中に売ることで、加工貿易で食ってきた。そして、コピー大国、韓国と中国によって、今、日本の技術は、かたっぱしから、中小企業を買収され、日本のほとんどの技術は今、韓国と中国が「継承している」。こんなに物価も税金も公務員の給料も高い日本は、これからどうやって食っていくんでしょーね。
著者の立場は、結局のところ、「国家絶対主義」に行き着くだろう。国家は好きなときに、個人の私的所有権を蹂躙していい。「お前のものは俺のもの」。ジャイアン国家こそ、その行き着く到達点。それこそ、奴隷としての、国民が、国家に「忠勤」のご奉行を捧げる明治憲法的国家市民の作法なのだろう。
たしかに、地下水を汲み尽されたり、木を切ったまま、そのままにされたり、水道事業を民営化することは、その地域の「地域財」の「破壊」を帰結する可能性があるだけに、注意が必要だろう。
例えば、私たちがアパートに住んでいて、「勝手に大家さんの都合で」ある日突然、追い出されないのは、「法によって、国家によって、守られている」からである。私たちが部屋を借りた、という契約が市民法によって、保護されているからである。これが、ナポレオン法典である。それは、なかなかハブ空港ができないことや、道路の拡張が気が長くなるような長い期間をかけても、土地の買取りが進まないことの理由にもなっているのだが。
国家ロイアリティ絶対主義者は、こう考える。国は、自分のロイヤリティの限りなさを「分かってくれるはずだ」。だから、ちょっとした、私腹を肥やす所業を「黙認」してくれるはずだ。「愛国有理」なのだ。そのためなら、何度だって土下座してやる。世の中には、反日分子、ロイヤリティのかけらもない、極悪党がごまんといる。そいつらの、私的財産をまきあげて、「俺にめぐめ」。
しかしね。それってようするに、ロイヤリティは「手段」だって言いたいんでしょ。目的は私腹を肥やすこと。ロイヤリティは「ふりだけ」なんでしょ。
理由は分からないけど、社会正義のため、正義の実現のため、フェアネスのため、社会奉仕活動に「忠勤」を誓う「憂国の士」が、私腹にしか興味のない、時の権力者と意見が対立するのは「当然だと思わないんですかね」。

奪われる日本の森―外資が水資源を狙っている

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