リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』

進化論というのは、現代人には、なかなか、理解しにくいものである。それは、マルクスを引用するまでもなく、物象化があたりまえなものとしてある、人間のありようから来る。例えば以下の引用箇所で、「動物が意識的に計算すると考える必要はない。とあるが、こういった表現がなかなか実感として、分からないのだ。

あるとき偶然に、とびきりきわだった分子が生じた。それを自己複製子とよぶことにしよう。それは必ずしももっと大きな分子でも、もっとも複雑な分子でもなかったであろうが、自らの複製を作れるという驚くべき特性をそなえていた。これはおよそ起こりそうもないできごとのように思われる。たいかにそうであった。それはとうてい起りそうもないことだった。人間の生涯では、こうした起りそうもないことは、実際上不可能なことといて扱われる。それが、フットボールの賭けで決っして大当りをとれない理由である。しかし、おこりそうなこととおこりそうもないことを判断する場合、われわれは数億年という歳月を扱うことになれていない。もし、数億年間毎週フットボールに賭けるならば、必ず何度も大当りをとることができよう。

「自己複製子」というアイデアは、とても簡単なものだけど、いろいろなことを考えさせる。コンピュータの、チューリング機械で、考えてもそうだし、ゲーム理論にものる話だろうし。

賭けの作戦としてどれがもっともよいかは、さまざまな複雑な事情による。たとえば、補食者の狩猟習性などがそれだが、これは、それぞれの補食者の立場から最大の効果をあげるように進化している。賭けの見込みについてはなんらかの評価をくださねばならない。とはいえ、もちろん動物が意識的に計算すると考える必要はない。なるべく正しい賭けのできるような脳を遺伝子がつくってくれた個体が、その直接の結果としてよりよく生きのこり、したがってその同じ遺伝子をふやしていくだろうと考えればよいのだ。

進化そのものが、計算可能なはずはないが、そのいろいろな側面をあらわす、単純化されたモデルが、実に計算にのる。17世紀のドイツの哲学者カントは、たしか、現実に「理念を投げ入れる」だったかな、そんなふうに言ってたと思うけど、カントが十分に科学を意識していることは間違いないんでしょうね。

松岡正剛の千夜千冊『利己的な遺伝子リチャード・ドーキンス
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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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