ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』

心理学の知見を、一般の謬見から、説明している。その内容は、進化論的にも説明できるくらい、「自然的」だ。

自我は、傷つけられたあとはなおさら、自己評価を高める情報を追い求める。そして、それを見つけると大歓迎する。たとえば、「あなたの成績は散々でした」という知能検査のニセの結果を見せられた被験者は、知能検査など当てにならないとする文書に飛びつくし、好成績だったと伝えられた被験者は、知能検査の有効性を示す情報に異常なほど興味を示す。また、同じように意外な情報でも、自我におもねる情報は誰でもすぐに信じるのに、自尊心を傷つけるそれはなかなか信じようとしない。自己欺瞞が破ていしそうになると、今度は自我はあきれるほど自己批判的なリアリストに変身する。自分の能力が試されるのを予想すると、人は自分の短所に関する情報に突然細心の注意を払うようになる。ただしそれは、そのほうが長期的に見て自尊心が傷つかなくて済むだろうという思惑からに過ぎない。他人を評価するときも、自我は自己評価を高めるという目的を忘れてはいない。多くの実験例が示しているように、人は他人を評価するとき、自分が他人より優れていると考えている特性を基準にする傾向がある。しかも、自分ではなく他人がやったことだと、いいことは控えめに、悪いことはより厳格に受けとめる。自己評価を低める情報に接っすると、人は必ず、他人を貶めたいという欲求を覚える。たとえば、とんでもなく低いIQを告げられた被験者は、自分よりさらにひどい人の結果について知りたがった。(中略)数々の科学的データからも、機嫌のいい人間のほうが気前がよく、思いやりがあり、人付き合いもいいことが実証されている。

しかし、人間関係における「現実」とは幸運なことに柔軟な概念である。周囲の人間から「話題に乏しいつまらない奴」と思われている無口な男性も、恋人の目から見れば、物静かであるがゆえにそれだけ深みのあるすてきな人なのである。夢見ていた恋人と現実の恋人との落差にやがて気づいてしまったとしても、問題はない。そのときには、恋人に対する要求水準もいくらか低くなるからである。そういう目で改めて見れば、現実の恋人は再び理想の恋人となる。恋人の目に映った理想の姿が現実になることさえあり得る。(中略)いずれにせよ、マレーらは、パートナーから十分に賞賛されることによって実際にそういう人間に成長するのだろうと推測している。「恋人を理想化することによって、一年のあいだにパートナーは恋人を実際にその理想どおりの人に造り上げていた。自分は蛙だと思っている蛙を、彼らは自分たちの憧れの王子様やお姫様に変えたのである」

テイラーとブラウンが実験したところによれば、うつ状態の人は(健康な人とは対照的に)快い経験も不快な経験もともによく記憶していたという。彼らは失敗を環境や他人のせいにしたりしなかったし、自分より不利な立場にある人と自分を比較して優越感に浸ることもずっと少なかった。投薬などの治療によって症状がよくなると、彼らも再び幻想に耽る徴候を見せるようになる。

「自尊意識が高い」とは、ごく大ざっぱに言えば、「自分のことが好きだ」ということである。だから、われわれが少しでも高い自尊意識を手に入れようとするのは当然のことである。ほとんどの人間は、他人から誉められれば心地よく感じる。(中略)おそらく、ホモ・サピエンスは複雑な社会集団のなかで生活してきたために、進化の過程で自分の価値に敏感になっていったのだろう、とリアリーは指摘している。属する集団にふさわしい存在である場合にのみ、人間は生き残ることができる。だから、人間は仲間の好意や反感に対する繊細な感覚を発達させてきたのだ。自尊意識とはいわば、自分が社会にどれだけ受容されているかを測る計測器のようなものだ。

世界的に有名な心理学者であるスタンフォード大学アルバート・バンデゥラも最近の著書のなかで、「自尊意識はその人の目標とも成果とも無関係である」と述べている。親の働きかけによって子供の学力を向上させることは、場合によってはもちろん可能である。しかし、親がすべきことは子供の自尊意識を高めてやることではない。子供の学力を向上させる唯一の方法はむしろ、勉強や成績や学校の大事さをきちんと子供に分からせることである。

フロイト先生のウソ (文春文庫)

フロイト先生のウソ (文春文庫)