梶井基次郎「冬の蝿」

彼の作品は、少ないですが、おもしろいものもあると思います。

私は山の凍てついた空気のなかを暗をわけて歩き出した。身体はすこしも温かくもならなかった。ときどきそれでも私の頬を軽くなでてゆく空気が感じられた。はじめ私はそれを発熱のためか、それとも極端な寒さのなかで起る身体の変調かと思っていた。しかし歩いてゆくうちに、それは昼間の日のほとぼりがまだ斑らに道に残っているためであるらしいことがわかって来た。(中略)「なんという苦い絶望した風景であろう。私は私の運命そのままの四囲のなかに歩いている。これは私の心そのままの姿であり、ここにいて私は日なたのなかで感じるような何等の欺瞞も感じない。私の神経は暗い行く手に向かって張り切り、今や決然とした意志を感じる。なんというそれは気持ちのいいことだろう。定罰のような闇、膚を酷寒。そのなかでこそ私の疲労は快く緊張し新しい戦慄を感じることが出来る。歩け。歩け。へたばるまで歩け」私は残酷な調子で自分を鞭打った。歩け。歩け。歩き殺してしまえ。

檸檬 (新潮文庫)

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