柄谷行人「音声と文字/日本のグラマトロジー」

子安宣邦と、酒井直樹との、対談。酒井直樹の『過去の声』を受けて行われた対談。この本において、伊藤仁斎が、重要な存在とされていることや、子安宣邦の『鬼神論』での、伊藤仁斎の評価、そして、彼自身による、以前の「伊藤仁斎論」、これらを改めて、ふりかえって、伊藤仁斎の、あまりにも、特異なくらいの、先進性を強調することになる。そして、そこに、スピノザとの同時代性を発見することになる。

子安さんの『鬼神論』でも、そういう書き方なんじゃないですか。仁斎の無鬼論というのは、一切を他者との倫理的関係にもっていくことである。ところが、朱子の無鬼論はそういうものではないし、また、儒学者の間で不可避的に朱子からくる「鬼神論」が存在していかざるをえないのは、仁斎的な視点をもたないからだ。子安さんはそう言っていると思うんです。しかし、仁斎の出現には飛躍があるでしょう。あとの人よりずっと先駆けたことを言っていて、しかも、仁斎以前にそんなものがない。突然先に全部言ってしまっているという感じがあるでしょう。あれはどういうことなんだろう。/丸山眞男のような思想史では、それは抜け落ちてしまう。たとえば懐徳堂の連中がやったことも、だいたい仁斎が言っているわけですね。それは、ヨーロッパでもそうで、スピノザは18世紀の啓蒙主義者などよりはるかに徹底しています。それは。子安さんが仁斎について言われたように、スピノザが「エチカ」つまり倫理に焦点を絞ったということと関係していると思う。たとえば、スピノザが言ったことで面白いのは、みんなが神の奇蹟と言うのは、自然法則から説明できないものを言うけれども、日々太陽が昇るような自然法則のほうが奇蹟ではないか、と。スピノザにとって重要なことは倫理、エチカなんですね。それ以外の「奇蹟」、言ってみれば「鬼神」は全部「自然」の問題にすぎない。この考えは、仁斎と同じだと思うんです。

普通に、哲学など、つまらない、くだらない、形式的な、屁理屈の羅列と思われている。そしてそれは、ほとんどが当たっている。実際に、どうでもいいような、理屈にもなっていない、説教でおおわれている。
しかし、である。どうぞ、この、スピノザと、伊藤仁斎の、二人の書いたものを読んでみてほしい。びっくりするはずです。この二人こそ、あまりに、時代を進みすぎていて、また、先を行きすぎている、ことを。
柄谷行人は、上記の二人というあまりにも特異な存在が、ほぼ同時代に現れていることに、伊藤仁斎でいえば、少し前の、堺の自治都市の雰囲気の、スピノザならイタリアのギルドの自治都市の、そういった、自治経済の雰囲気のまだ、残ったところで、考えていたのが、大きいのではないか、と指摘している。