トマス・クーン『コペルニクス革命』

トマス・クーンというと、『科学革命の構造』

科学革命の構造

科学革命の構造

において、「パラダイム」という科学論における、アイデアを提出した人で有名であるが、この「コペルニクス革命」という本こそ、かなり前であるが、大変なおもしろさと驚きをもって読んだ。
ここで言う「コペルニクス革命」とは、もちろん、地動説をとなえた、コペルニクスのことであるが、なぜ、コペルニクスの行った一連の成果が「革命」であったのか、そして、そこに科学理論が、時代とともに変化していく、ある一定の法則を指摘しよう、としているのだ。
コペルニクスが行ったことは、実は、地動説対天動説の、神学論争ではない。彼が行ったことは、ある種の、天体の位置の計算に関する、方法の提示であった。実は、これについては、アリストテレス以来の計算方法というものが、すでに昔から存在していた。しかし、こちらの方については、かなり難しい計算を行いながら、多くの場合にかなりの誤差を伴うものであることが知られていた。また、その誤差を埋めるためのさまざまなさらなる計算方法の改良(複雑化)も進められていたが、あまりおもわしい成果はあがっていなかった。
コペルニクスがやったことは、なんのことはない、これについて、計算もかなり簡単で、かつ、かなり誤差の少ない結果を残したものであったということだ。ただし、この計算を考えるにあたって、コペルニクスは、あたかも、地動説が唱えるような天体の運動を想定しモデルとした場合に、想定できる計算方法を使ってみたというだけで、コペルニクス自身に、これで、地動説対天動説の昔からの問題を自分が解決した、というような感覚はなかったようだ。
この、ある種の、「成功」という事実に注目したのが、トマス・クーンの『科学革命の構造』での、科学論の主張になる。
科学論というと、カール・ポパーの「反証可能性」が、ひとつの定説となっていた。これはどういう主張かというと、ある理論が提唱されたとき、「誰か」が、その理論は間違っていることを証明しないかぎりは、その理論は、正しい、ということにしようじゃないか、という取り決めによって、科学は営まれているんだ、ということだ。この考えのおもしろいところは、主張している本人以外の人の営為が、あらかじめ、想定されていることだ(このことについて、柄谷行人は、「最終結審のない裁判」のようなもの、と言っている)。
ところが、科学において、この「反証可能性」の成立していない理論が、実に、たくさんある。こんなものは、成立していない方が普通なのだ。そうすると、これ自体は、ある種の真実を、あらわしているとしても、これだけで、科学を説明したことにはならない、という雰囲気になる。
トマス・クーンが注目したのが、実際の科学者集団の生態である。彼らは、小さなコミュニティをつくり、「レフェリー」という、各科学の成果を吟味するプロの専門家が存在している。では、外部から来た生徒たちは、どのようにそのコミュニティのプロになっていくか。クーンがどう説明しているかというと、生徒たちは、先生たちが提出する問題を解くこと、つまり、先生たちのやっていることを、「まね」することで、その作法を身に付けていく、というのだ。この一連の作業を、クーンは、「成功した範例」といっている。例題、練習問題というのは、そもそも、解答がペアで用意されているから、そう呼ぶわけだが、生徒がその解答とパラレルな振舞いをすることで、どう振舞うことが、ここで求められているかを、インプリントしていく。
つまり、もうここには、「なぜこの科学理論が選ばれているのか」といった、真理問題は、背景に消えていて、ある種の蓋然性(実際にこっちの方が便利なんでよく売れる、と似たような)によって、人間が行動しているという、事実性の話になっている。
ちなみに、柄谷行人は、この「成功した範例」について、『探究2』において、水泳選手の泳ぎ方、世界記録を残すなど、いい記録を残した選手の泳法が、それ以後、まねされ、ドミナントとなっていく、その変化と比較している。

コペルニクス革命 (講談社学術文庫)

コペルニクス革命 (講談社学術文庫)